太平記を読まないか? Vol.9~巻1-⑨「謀反露顕の事」

[はじめに]

 どうもこんにちは。今回は数回に渡る謀反計画の、一つの終結について述べられている節を読んでいく。結論から言えばこれだけでは終わらず、「終わりの始まり」の様相を呈していくのだが、それはそれとしてしっかりと読んでいこう。

『太平記』巻1「謀反露顕の事」

[原文①]

 謀反人の与党、土岐とき左近蔵人さこんくろうど頼員よりかずは、六波羅の奉行、斎藤太郎左衛門尉さえもんのじょう利行としゆき息女そくじょして最愛したりけるが、世の中すでに乱れて、合戦出で来たらば、千に一つも討死せずと云ふ事あるまじと思ひける間、かねて名残や惜しかりけん、或る夜の寝覚ねざめの物語りに、「一樹いちじゅの陰に寄り、同じ流れをむも、皆多生たしょうの縁浅からずとこそ承れ。いわんや、相馴れ奉ってすでに三年みとせになりぬ。なほざりならぬ志の程をば、気色に付けて、折に触れても、思ひ知り給ひぬらん。さても、定めなきは人間の習ひなれば、相逢ふ中のちぎりなれば、今もしわが身はかなくなりぬと聞きたまふ事あらば、亡からん跡までも、貞女ていじょの心を失はで、わが後の世をとぶらひ給へ。人間に帰つては、二度ふたたび夫婦の契りをなし、浄土に生まれば、同じはちすうてな半座はんざを分けて待つべし」と、その事となく掻き口説き、涙を流してぞ申しける。

[現代語訳①]

 謀反人の中まである土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行人である斎藤太郎左衛門尉利行の娘を嫁に貰いたいそう仲睦まじくしていたが、世の中が混乱を極め、合戦が起ころうものなら、千に一つも討死しないという事はないだろうという(ほど厳しい)状況の中、以前から名残惜しかったのであろう、或る夜ふと目が覚めた折の物語りに、
「同じ木の下に雨宿りをし、同じ川の水を飲むというのも、遠く昔から定まった縁であるという話があります。ましてや、私たちは一緒になってもう三年が過ぎようとしています。私のひとかたならぬ愛情を、日ごろ、折に触れてきっと分かってもらえていますでしょう。でも、人間とは無常なものだから、こうして出会った私たちの約束として聞いてほしいのです。これから、もし私の討死が知らされる事があったら、私が死んだ後でも、貞淑を守って、私を弔ってください。再び人間として生まれれば、また夫婦の契りを交わし、もし浄土に転生したならば、同じ蓮の上に座を半分に待ってお待ちしております」
と、何かのきっかけがある訳でもなく、涙を流しながら繰り返し言い聞かせた。

[原文②]

 女、つくづくと聞いて、「あやしや、何事のはんべるぞや。明日までの契りの程も知らぬ浮世の中に、後世ごせまでのあらましは、忘れんとてのこころにてこそ侍らめ。さらでは、かかるべしとも覚えず」と、歎き恨みて問ひければ、男は心浅く、「さればとよ、われ不慮の勅命を承って、君にたのまれ奉る間、辞するに道なくして、謀叛にくみしぬる間、千に一つも命の生きんずる事かたしと、あぢきなく存ずる程に、近づく別れの悲しさに、かねてはかやうに申すなり。この事、あなかしこ、人に知らせ給ふな」と、よくよく口をぞ堅めける。
 かの女性にょしょう、心さかしき女なりければ、つとに起きて、つくづくとこの事を思ふに、君の御謀叛事ならずは、たのうだる男、たちまちにちゅうせらるべし。もしまた武家亡ばば、わが親類、たれか一人も残るべき。さらば、これを父の利行としゆきに語つて、左近蔵人を返りちゅうの者になし、これをも助け、親類をも助けんよと思ひて、急ぎ父がもとへ行きて、忍びやかにこの事をありのままにぞ語りける。斎藤、大きに驚いて、やがて左近蔵人を呼び寄せて、
「かかる思ひも寄らぬ不思議の事をうけたまわるは、まことにて候ふやらん。今の世にかやうの事を思ひ企て給はんは、ひとへに石をいだいてふちる者にて候ふべし。もし他人の口より漏れなば、われわれに至るまで、皆ちゅうせらるべきにて候へば、利行、急ぎ御辺ごへんの告げ知らせたる由を、六波羅殿に申して、ともにそのとがのがれんと思ふは、いかが計らひ給ふ」
と問ひければ、これ程の一大事を女性にょしょうに知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき。
「ただともかくも、身の咎を助くるやうに、御計らひ候ふべし」
とぞ申しける。

[現代語訳②]

 女はつくづくこれを聞いて、「おかしい。何かあったのだろうか。明日の約束さえ果たされるかも分からない世の中で、来世までの約束をするとは、きっと私を捨て、忘れようとしているからでしょう。そうじゃなかったからこんな事を急におっしゃるとは思えない」と悲しみ恨んで問い詰めると、男はあっさり、「いや、それがですね...思いがけず帝から命令をお受けして、帝から頼りにされました以上は、それを断る事などで出来ず...。謀反に加担しているからには千に一つも生き残る事は無いだろうと、はかなく世の無常を思っているうちに、貴方との別れが近づいてくる事の悲しさから、今の内にこうして話したのです。この事(謀反に加わった事)は絶対に、他言無用ですよ」と女の口をよく戒めた。
 この女は、優れた判断力を持った人であったから、早朝に起きて、つらつらこの事を考えていると、もし君の謀叛がご成功しなければ、帝が"頼りにしている"我が夫はすぐにでも罰せられてしまうだろう。そしてもし、再び武家が滅んでしまったら、私の親類の中で誰が生き残ると言えようか。それならば、この話を父(利行)に話して、夫(左近蔵人)を返り忠の者にしてしまい、夫も、親族も助けてしまおうと考え、女は急いで父の元へ行き、密かにこの事(謀叛の事)を聞いたまま父へ語った。利行は大変驚き、すぐに左近蔵人を呼び寄せて、
「このような思いがけない怪しい事を承服したというのは本当の事なのか。今の世でこのような事を考え計画なさるのは、石を抱えて深い水の中に入る者と同じでありましょう。もし他人の口から漏れる事があれば、我らに至るまで皆が罰せられるだろうから、私(利行)は急いでそなたが告げ知らせてくれた事を六波羅殿に申し上げて、共にその(謀叛の)罪を逃れたいと思うが、どのようにお考えだろうか」
と問うと、これ程の重大な事を妻に知らせる程度の心根であるから、ひどく慌てない訳が無かった。左近蔵人は、
「た、ただとにかく、罪を逃れられますよう取り計らってください」とだけ言った。

[原文③]

 夜未だ明けざるに、斎藤、急ぎ六波羅殿へ参つて、事の子細をくわしく告げ申しければ、即ち京中きょうじゅう洛外の武士どもを、六波羅殿へ召し集めて、着到ちゃくとうをぞ付けられける。
 そのころ摂津のくに葛葉くずはと云ふ所に、地下人じげにん等本所の代官をそむき、合戦に及ぶ事あり。かの本所の雑掌ざっしょうを、六波羅の沙汰として、庄家しょうけにしゑんために、四十八ヶ所のかがりならびに在京人を催さるる由を披露せらる。これは、謀叛のともがらを逃さじがためのはかりごとなり。土岐とき多治見たじみも、わが身の上とは思ひも寄らざりければ、明日は葛葉へ向かふべき用意して、皆おのが宿所にぞ居たりける。

[現代語訳③]

 夜も未だ明けない内に、利行はすぐに六波羅殿へ参上して、事の詳細を詳しく告げると、すぐに京内・洛外の武士たちを六波羅殿の元に招集して、まず来着した者を記す帳簿を付けなさった。
 その頃、摂津国葛葉という所で、在地の武士らが本所の代官を裏切って、両者の間で合戦が起こった。この本所の雑掌を、六波羅からの命令として庄家に据えるために四十八ヶ所の篝屋の武士と、在京の御家人を招集する触れを出した。これは、謀叛に関わる輩を逃さないための六波羅探題の謀であった。土岐も多治見も、まさか自分が危ないとは思ってもみず、明日葛葉へ向かうための用意をして、二人とも自分の宿に留まっていた。

[解説]

 今節は、土岐左近蔵人頼員が謀叛の計画を"こっそり"妻に漏らし、妻が我が身・夫・そして親類にまで危険が及ぶ事を察知して父である斎藤利行に打ち明け、利行は六波羅探題に申告し……という具合に話が進んでいく。
 この、妻(女性)に秘密を打ち明けるという展開は、この先にも何度か用いられていく。そしてそれが、物語を動かす仕掛けとなっていくのである。
・終盤の荘園の話
 荘園制度は、特に高校で日本史を学んだ者であれば一度は確実に聞き覚えがあり、かつ「めんどくさいな……」と思った事であろう。ものすごく単純に言えば、今節の時期の荘園は後期~末期に当たるものだった。
前期(初期)荘園:まだ開墾されていない土地を中心に、寺社や貴族が開発を進めていった土地を指す。必ず税(租)を収める必要がある。
中期(便宜的な区分)荘園:地元の者、或いは小中規模の貴族などが、持っている土地を更に上位の貴族・寺社に「寄進」する事で、巨大な領域を持つようになる。税を収める必要が無くなる「不輸の権」を持つ荘園が現れるようになる。
※この辺りから、貴族・寺社は大規模した荘園に対して、代官を派遣して荘園を管理させ、その土地の収益を自分の住む所に送らせて儲けを得るようになっていった。この「間接統治」的な在り方が、今節のようなトラブルの種となる。
後期荘園:今節でいう「雑掌」が力を持ち始める―具体的には払えと言われた分に満たない収益しか送らず、蓄えを作るなど―事が起きたり、まさに今節のように在地の者が「武士」として力をつけるようになっていったり(武士の登場時は今でいうごろつきだった)、土地支配が揺らぎ始めていく時期。
 といったような具合で荘園制度は変わり、戦国~江戸期に至って完全に消滅した。これを背景としてみると、後期荘園の辺りに相当する今節の荘園では、「本所」(貴族・寺社など、荘園を持っている人)の代官が在地の武士と争っていて、それを見た六波羅が、本所の雑掌を領主として、かつ争いを鎮めるために武士(御家人)を招集した。「いざ鎌倉」ならぬ「いざ六波羅」という具合である。
 つまり、これに来なければ謀叛の疑いあり、という事になるのだが、実際土岐・多治見らは来なかった。そもそもそんな重大な事でないと思っていたのであろう(わが身の上とは思ひも寄らざりければ……)。しかし、この筋書きは「嘘」である。今節では書かれていないが、恐らく六波羅は、
「葛葉で争いが起きてるから鎮圧する。明日の昼までに探題の前に集合しろ」と表向きには伝えておき、実際謀叛人でない者には、
「土岐と多治見が裏切っているらしいから討伐する。明日の六時までに探題の前集合ね」
 という具合にしていたのではなかろうか。『太平記』にはそれが書かれていないので、誰か当時在京の御家人だった人がいればご一報欲しい。
 それでは今回はここまでとしよう。また次回に。

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