太平記を読まないか? Vol.12~巻1-⑫「主上御告文関東に下さるる事」~

[はじめに]

 こんにちは。今回は、一連の謀叛計画が、一応の終焉を見る。と同時に、この先にも繋がる終焉である。日野資朝、日野俊基はこの先どうなっていくのか、そして後醍醐天皇の思いは。巻一、最終節を読んでいこう。

『太平記』巻1「主上しゅじょう御告文ごこうぶん関東に下さるる事」

[原文①]

 七月七日の夜は、牽牛けんぎゅう織女しょくじょ二星じせい烏鵲うじゃくの橋を渡つて、一年の懐抱かいほうを解く夜なれば、宮人みやびとの風俗、竹竿ちくかん願糸がんしを懸け、庭前ていぜん嘉菓かかつらねて、乞巧奠きっこうでんしゅせらるる夜なれども、世上せじょう騒がしき折節おりふしなれば、詩歌しいかを奉る騒人そうじんもなく、絃管げんかん調しらぶる伶倫れいりんもなし。庭上ていしょう上臥うえぶしつかうまつりたる月卿雲客げっけいうんかくも、何となく、世の中の乱れ、またが身の上にか来たらんずらんと、たましいを消し、肝を冷やす時分おりふしなれば、皆まゆひそめ、おもてれてぞ候ひける。

[現代語訳①]

 七月七日の夜は、牽牛星と織女星、二つの星が烏鵲の橋を渡って一年間の胸の思いを晴らす夜なので、宮中に使える人々の風俗として、竹竿に五色の糸をかけて願い事をし、宮中に立派な菓子を並べて乞巧奠を執り行う夜なのだが、何とも落ち着かない世の折なので、詩歌を奉る風雅な者も、絃管を奏でる楽人もいなかった。
 宮中に宿直する公卿や殿上人も、何となく世の中が乱れ、そしてそれが誰に影響してしまうのだろうかと、驚き恐れる頃であったので、皆怪訝そうで、俯きがちにいらっしゃった。

[原文②]

 いたくけて、「たれか候ふ」と仰せられければ、吉田中納言ちゅうなごん冬方ふゆかた、「候ふ」とて、御前おんまえに参ぜられたり。主上、席を進めて仰せられけるは、「資朝すけとも俊基としもととらはれしのち東風とうふうなほ未だ静かならずして、中夏ちゅうか常に危ふきを踏む。この上にまた、いかなる沙汰さたをか致さんずらんと、叡慮えいりょ更に穏やかならず。いかがしてか、東夷とういの心を静むるはかりごとを仰せ下さるべき」と勅問ちょくもんありければ、冬方、つつしんで申されけるは、「資朝、俊基が白状はくじょうありともうけたまわり候はねば、武臣ぶしん、この上の沙汰には及び候はじと存じ候へども、近日、東夷の行ふ事、楚忽そこつの儀多く候へば、御油断ごゆだんはあるまじきにて候ふ。先づ告文を一紙いっし下され候ひて、相模入道さがみのにゅうどうが怒りを鎮め候はばや」と申されければ、主上、げにもとやおぼし召されけん、「さらば、やがて冬方書け」と仰せられければ、則ち御前にして草案そうあんをして、これを奏覧そうらんす。主上、暫く叡覧えいらんあつて、御涙の告文の上にはらはらと懸かりけるを、御袖にてのごはせ給へば、御前に候ひける老臣ろうしん、皆悲啼ひていを含まぬはなかりけり。

[現代語訳②]

 夜もとっぷりと暮れて、「誰かいるか」と(帝が)仰せになると、吉田中納言冬方が、おります」と答えて帝の御前に参上した。帝は、冬方に近づき、
「資朝と俊基が鎌倉に捕らわれてから、鎌倉の様子は未だに落ち着く様子もなく、朝廷は危ういままだである。この上、鎌倉がどのような手を打ってくるのか気がかりで仕方がない。ともかくも、どのようにして"あずまえびす"の心を落ち着かせる策を巡らせ、鎌倉に伝えれば良いだろうか」と直にご質問なさったので、冬方が謹んで帝に申し上げるには、
「資朝、俊基が白状したという情報も未だ聞きませぬので、鎌倉もこれ以上の手を打つ事は難しいと存じますが、近頃鎌倉の武士らが行う事は、軽率で無礼極まりないものが多くありますので、ご油断なされぬ方がよろしいかと存じます。まずは一つ、告文をお下しなさって相模入道様の怒りをお鎮めなさいませ」と申し上げたので、帝はその通りだとお思いになったのだろう、「であれば冬方、すぐに書け」と仰せになったので、直ちに帝の御前で草案を作成し、それを奏上した。帝はこれを暫く御覧になって、お涙が告文の上にはらはらと懸かったのをお袖で押し拭いなさったので、御前に控える老臣の中で、悲嘆の涙に暮れぬ者はいなかった。

[原文③]

 やがて万里小路までのこうじ中納言ちゅうなごん宜房のぶふさきょう勅使ちょくしにて、この御告文ごこうぶんを関東へ下さる。相模入道、秋田城介あいたのじょうのすけを以て告文を請け取つて、則ち披見ひけんせんとしけるを、二階堂にかいどう出羽入道でわのにゅうどう道蘊どううん、堅くいさめて申しけるは、「天子、武臣に対してじきに御告文を下されたる事、異朝いちょうにもわがちょうにも、未だその例をうけたまわらず。しかるを、等閑なおざりに披見せられん事、冥見みょうけんにつけてその恐れあり。ただこの文箱ふんばこひらかれずして、勅使ちょくしに返しまゐらせらるべきか」と再往さいおう申しけるを、相模入道さがみのにゅうどう、「何か苦しかるべき」とて、斎藤太郎さいとうたろう左衛門尉ざえもんのじょう利行としゆきに読みまゐらせさせけるに、「叡心えいしんの偽らざるのところ、天の照鑑しょうかんまかす」と遊ばされたる所を読みける時、利行、にわかに目れ、鼻血垂りければ、読みはてずして退出したりけるが、その日より、のんどの下に悪瘡あくそう出でて、七日なぬかうちに血を吐いて死ににけり。
 時澆季ぎょうきに及んで、道塗炭とたんに落ちぬと云へども、君臣上下くんしんじょうげの礼たがふ時は、さすが仏神ぶつじんばちもありけると、これを聞きける人ごとに、ぢ恐れるはなかりけり。
「いかさま資朝、俊基の隠謀いんぼう、叡慮より出だされし事なれば、たとひ告文を下されたりと云へども、それにはるべからず。主上しゅじょうをば遠国おんごくうつし奉るべし」と、初めは評定一決ひょうじょういっけつしたりけれども、勅使宣房のぶふさきょうの申さるるおもむき、げにもと覚ゆる上、告文読みたりし利行が、にわかに血を吐いて死にたりけるに、諸人、皆したを巻いて口をづ。相模入道も、さすがに天慮てんりょそのはばかりありけるにや、「御治世ごちせい御事おんことは、朝儀ちょうぎまかせ奉る上は、武家いろひ申すべきにあらず」と、勅答ちょくとう申して、御告文をば返しまゐらせらる。宜房、則ち帰洛きらくして、このよしを奏し申されけるにこそ、宸襟しんきん始めて解けて、群臣ぐんしん色をば直されけれ。
 さる程に、俊基朝臣は、罪の疑はしきをかろくして、赦免しゃめんせられ、資朝卿は、死罪一等しざいいっとうなだめられて、佐渡国さどのくにへぞ流されける。

[現代語訳③]

 すぐに万里小路中納言宜房卿を勅使に立てて、この御告文を幕府へと下した。相模入道は、秋田城介に御告文を受け取らせて披見しようとしたのを、二階堂出羽入道道蘊が堅く諫めて(相模入道に)申し上げるには、「天子が、武臣に対して直接御告文をお下しになる事は、異朝でも我が朝でもその例をお聞きした事がありません。それにも関わらずなおざりに披見しなさるのは、神仏の御照覧を思うにつけて畏れ多い事です。今はただこの文箱を開かず、勅使にお返し申し上げるのが良いのではないでしょうか」と再三に渡って申し上げたのを、相模入道は「何か差し障りがあるだろうか」と申して、斎藤太郎左衛門尉利行に読み申し上げさせたところ、「叡心に偽りのない事は、神仏に照覧に任せる」とお書きになられた箇所を詠んだ時、利行は急にめまいがして鼻血も出てきたので、読み終えずに(御前から)退出したが、その日から(利行の)喉の下に悪いできものが現れ、七日と経たぬ内に血を吐いて死んでしまったという。
 人情の浮薄な末世となって、人道は廃れてしまったといえども、君臣の上下の礼を守らなった時は、やはり仏神の罰が下るのだなあと、これ(利行の死)を聞いた人は皆恐れおののいていた。「きっと、資朝・俊基の陰謀は、帝のお心によって起こった事であるから、たとえ御告文が下されたと言っても、そもそもその御告文を信じる事は出来ない。帝を遠国へお遷し申し上げるべきだ」と、初めは(幕府の中で)意見が一致していたが、勅使宜房卿が申し上げた事の趣意は納得のいくもので、御告文を読んだ利行が突然血を吐いて死んでしまった事に、多くの武臣は閉口してしまった。相模入道も、やはり天の思し召しに憚ったのだろう、「御治世の事については、朝廷の計らいにお任せ申し上げているので、武家が干渉し申し上げるのは適当ではない」と勅答し申し上げて、御告文をお返し申し上げた。宜房はただちに帰洛して、この件を奏上し申し上げたことでようやく、帝の不安は和らぎ、臣下たちも元の顔色を取り戻した。
 こうして、俊基朝臣は(有罪か)疑惑のある罪が許され、資朝卿は死罪となる所を一段許され、佐渡国へ配流となった。

[解説]

 さて、今回も、前回の記事で述べた「宮方深重」の趣が表れている。謀叛人を鎌倉に下向させ、重い刑罰を下すのは当然といえば当然の事だが、問題はその謀反人が時の天皇の寵臣だったという事である。実質的に、天皇が謀叛の罪を二人に着せた(無論着せられた二人にその感覚は無かっただろう)この謀叛は、後に「正中の変」と呼ばれ、後の「元弘の変」と並ぶ、後醍醐天皇による2つの政変として語られる事になる。
 今回、後半部において、「勅使宣房のぶふさきょうの申さるるおもむき、げにもと覚ゆる」という箇所が見えるが、宜房卿が何かを語った場面は少なくとも、ここまでの記述には見られない。この箇所は『国史大辞典』などで以下のように語られる。
「正中元年(1324年。史実における謀叛発覚の年)、(中略)後醍醐天皇の討幕の謀が発覚すると、宜房は勅使として鎌倉に下向して釈明に努めた」(『国史大辞典』、万里小路宜房)
 つまり、『太平記』の文中では宜房が何かを直接語った場面は記されていないものの、その「行間」においては、御告文と共に宜房が弁明をしたのであろう。「天皇は一切関わりなく、この二人が悪い」のだと。さしもの幕府で評定にかかわる人を「げにも」と思わせる程なのだから、余程巧みに釈明した事は疑いようがない。
 『太平記』を読んでいると、必ず疑問に思ったり、やや引っかかる場面が表れる。今回ここで解説したのは宜房についてだったが、御告文を読んだ斎藤利行が死んでしまった事も、『太平記』の有する「怨霊史観」の側面を部分的に示している。『太平記』に関わらず、古い物語を読む際には同時代の「史実」や、同じ時代を書いた別の史料などを参照してみると面白いだろう。

[次回からは……]

  さて、今回の記事を以て、『太平記』巻一を読み終えた。記述の大半が正中の変についてだったが、いかがだっただろうか。ここまで、全ての記事を読んでくださった方は、『太平記』の1/40……2.5%を読み終えたという事になる! これは快挙であり、素晴らしい一歩と言える。
 次回の記事からは巻二へと入っていく。巻二からは、一投稿辺りの分量が増える(記事の分割などを基本的に行わない方針)なので、引き続き頑張って読んでいこう。
 それでは、今回はここまでとする。また次回。

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