太平記を読まないか? Vol.11~巻1-⑪「俊基資朝朝臣召し取られ関東下向の事」~
[はじめに]
こんにちは。今回は、前回と打って変わって比較的短い節を読んでいく。簡単にまとめてしまえば、土岐・多治見討伐の事後処理①、のような記事である。前節と合わせて読んでいこう。
『太平記』巻1「俊基資朝朝臣召し取られ関東下向の事」
[原文]
土岐、多治見討たれ、資朝、俊基の隠謀、次第に露顕したりければ、東使長崎孫四郎左衛門尉泰光、南条次郎左衛門尉宗直、二人上洛して、正中二年五月十日、資朝、俊基両人を召し取り奉る。土岐が討たれし時、生取に一人もなかりしかば、白状はよもあらじ、さりともわれらが事は顕れじと、はかなき憑みに油断して、かつてその用意もなかりければ、妻子東西に逃げ迷うて、身を隠さんとするに所なし。財宝は大路に引き散らされて、馬の蹄の塵となりにけり。
かの資朝卿は、日野の一門にて、職大理を経て、官中納言に至りしかば、君の御覚えも他に異にして、家の繁盛時を得たりき。俊基朝臣は、身儒雅の下より出でて、望み勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷じきを啜る。宜なるかな、「不義にして富み且つ貴きは、われに於て浮かべる雲の如し」と云へる事、これ孔子の善言、魯論の記する処なれば、なじかは少しも違ふべき。夢の中の楽しみ忽ちに尽きて、眼の前の悲しみここに来たれりと、これを見聞ける人ごとに、盛者必衰の理を知らでも袖を干しあへず。
同じき二十七日、東使両人、資朝、俊基を具足し奉つて、鎌倉に下着す。この人々は、殊更謀叛の帳本たれば、やがて誅せられんと覚えしかども、ともに朝廷の近臣として、才学優長の人たりしかば、世の譏り、君の御憤りを憚つて、嗷問の沙汰にも及ばず、ただ尋常の召人の如くにて、侍所にぞ預け置かれける。
[現代語訳]
土岐と多治見が討たれ、(日野)資朝、俊基の陰謀が次第に露顕していった事で、鎌倉から長崎孫四郎左衛門尉泰光と、南条次郎左衛門尉宗直の二人の使者が上洛して、正中二年五月十日、資朝、俊基両人を捕え申し上げた。土岐が討たれた時、生け捕られた(土岐方の)者が一人もいなかったので、(土岐方の者が)白状などするはずもなく、もし(生け捕られた者がいて、)白状したとしても自分たちの計画が露顕する事は無いだろうと頼りないものに頼って油断し、これまで何の用意もしてこなかったので、妻子は散り散りになり、満足に身を隠す場所も無かった。財宝は通りにばら撒かれ、馬の蹄の塵になってしまった。
この資朝卿は日野の一門で、職は大理を経験し、官位は中納言にまで至ったので、帝からの寵愛も格別であり、日野家はよい時機を上手く捉えて繁栄していった。俊基朝臣は文物に優れた家の出で、出世の望みが功績以上に達したので、同僚もあれこれと俊基朝臣にこびへつらっていった。
「不正な手段で得た地位や財産は、浮雲のように頼りなくはかないものである。」とは、まさに宜なるかな。これは孔子の善言で、魯論に記されているものであるから、どうして僅かにでも違う事があるだろうか。夢のような楽しみはたちまち尽きてしまって眼前に悲しみが現れたと、これを見聞きする人は皆、盛者必衰の理を知らずとも袖の乾く暇が無かった。
同じ二十七日、鎌倉からの使者二人は、資朝・俊基を召し連れ申し上げて鎌倉に到着した。この二人は、特に謀叛の首謀者であったので、すぐに死罪となるのだろうと思われていたが、この二人は共に朝廷の近臣として才学優れた者だったので、批判される事・帝が憤りなさる事を考慮して、拷問をする事もなく、通常の囚人と同じように、侍所に預け置かれたとの事だった。
[解説]
今節は、平たく言えば謀叛の首謀者が鎌倉に召し取られる=連行されるという話だ。今回注目したいのは「下着」と、「奉る」表現の2点である。なお、下着(げちゃく)であり、下着(したぎ)ではない。
『太平記』に対する評価として、「宮方深長」という言葉が良く用いられる。これは簡単に言えば「天皇・公家方に対して大変配慮がなされている」という意味で、その一方で武士・公家・天皇を問わず批評を加えているというのも『太平記』の特徴だ。この「宮方深長」に象徴的な表現は数多あるが、今回その一つが現れた。まずは中世日本の世界観を表す「下着」である。京に「上洛」し、鎌倉に「下着」する。旧国制に見える、「越前」「越後」や、「上野」「下野」の「前後」、「上下」は京に近いかどうかを表すものである。これは中世だけに留まらず、この先の時代(いわゆる江戸時代にまで)にも続く世界観である。
加えて、俊基・資朝は謀叛の首謀者でありながら、召し取り「奉る」、具足し「奉る」という謙譲表現がなされている事にも注目したい。これは簡単に言えば、たかだか「東使」の武士二人が、帝からの信任厚い近臣二人を鎌倉に「下向」させるのだから、位が高いのは近臣二人の方なのである。たとえ謀叛を計画していても、だ。だからこそ、殺傷はおろか、拷問さえせずいただ侍所に留めたのである。
今後もこのような表現は随所で見られる事だろう。中々細かい表現も多く、全てを拾う事は、私も読者の皆さんも難しいだろうが、全体として「宮方深長」であるという事には留意して頂きたい。
今回はここまでとしよう。それではまた次回。
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