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独奏について #5 - 楽器と身体

photo©︎cafeBeulmans

日曜日に独奏をするので、久しぶりに書こうと思います。
今回は身体と楽器の関係性について。かなり広いトピックですが、最近考えてることを少し。そもそもほぼ独学だったこともあり割と気を使っていたとは思うのですが、サックスを教える機会が増えたりたまにダンサーと共演する事があったりと、改めて真面目に向き合わされてる気がします。まず効率の良し悪しと運指から生まれるものについて。

効率の良し悪し

楽器をやっている人であれば当たり前すぎる事なんでしょうけど、まず音を出すにおいて一番大事なのは演奏のしやすさと効率の良さであって、それ以上の事に集中できるように、もしくはそれだけに集中しても音楽的に成立させられる余裕を作る事だと個人的に感じてます。(これは楽器のセッティングなどの話に直結しますが、今回は身体の方にフォーカスします。)
独奏において何故これが特に重要性を帯びてくるかと言うと、まず最初に90分間休みなしの即興演奏は体力勝負だからです。笑
と言っても、本当に効率の良い関係性を楽器と身体の間で保つ事ができれば疲れを感じないどころか寧ろ終演後スッキリします。口の疲労や肩や腰、腕や指など、どこにも痛みを感じないようなプレイスタイルを目指していて基本的には90分終わってから更に90分くらい吹き続けられるくらいの余裕は感じるのですが、実際どこかしらのタイミングで不思議な体制をキープしていたり小指と薬指をメインにずっと反復するフレーズを吹いていたりと身体に負荷がかかることをやってしまう事もあって無意識的に演奏に影響が出てきている気がします。

この効率の悪さがを具体的にどのように音楽的な内容に影響するかというのはサックスの生徒達を見ていてよく考えるようになりました。
例えば、ストラップと腕の位置的に楽器のバランスを上手くキープできていなかったり手首に少しでも必要以上な角度がついていると特定の音が吹き辛くなったり他の音と比べて出るスピードにムラが出てきたり、首を前に出していて楽器の位置が低いと十分に空気が吸えずその効率の悪さを補うために呼吸で力んで逆に弱い音になったり、などなど。立ち方・座り方も大きく影響します。

そして、生徒に楽器を教えていてよく思うのは、頭の中の想像力と身体の使い方は切り離すことができないということ。例えば高い音や譜面上複雑に見える音列を吹くとき「難しそう」という固定観念が働いて身体が力んで結果的に細い音になったり、テンポが上がったり、指が跳ね上がってリズムが不安定になったり。
でも、もしこの「難しそう」という情報がとてもリアルなものとして演奏上実体化してしまう空想上の障害物だとすれば、同じように他の想像上のアイデアを身体を通して楽器で反映させる事がいくらでも可能なのではと思ってます。「難しそう」というアイデアが具現化されるプロセスは意識の水面下で行われるので、他のアイデアを無意識的に具現化させるための余裕を効率の良い動作で作る。
更にこの逆パターンとして、身体の方から意図的にデフォルトの効率の良い動きではない動きをすることによって新しいアイデアや音楽的な効果を得られる。ここがミソな気がします。(具体例の一つは下の運指のセクションで。)
管楽器は特に位置的にも身体に近い上に、アルトサックスに関しては楽器全ての重みを自分で支えているし、生きていく上で誰しもが必要とする呼吸が音の原料になっているのでもはや演奏者の身体と一体化しているようなもの。頭で想像するもの、身体で感じるもの、音楽として作り出すものが全て一緒のものだということを思い知らされます。

そして、効率の良し悪し=音楽の良し悪しではなく、効率が悪い上で驚きの結果になったりバグ的な要素が加わって新しい道筋が提示されたりと面白い結果を生むことがあります。というか効率の悪いものが音楽の神秘的な部分や感情を揺さぶる要素になる事が多いと思います。
ただ、やっぱりバグ的な要素を意図的に良い塩梅で加えるのだとすると余裕のある楽器のコントロールと効率の良い動作がデフォルトとしてあることの必要性が高まります。
効率の良さを身体で理解していると、意図的に効率の悪さをプラス要素として組み込める事ができるし、「効率の悪さ加減」みたいなものも調整できるようになり、これを意識しているとこのレンジが倍増して広がります。(なので、たまに聞く「下手うま」みたいな雑な言葉は割と苦手です。)
でも楽器を始めて12,3年経つので変な癖がついたり、マイナーな所でコントロールできていない効率の悪さはあるので、そういうのはしっかり練習して対処していきたいです。

運指から生まれるもの

去年インタビューで他の楽器や音に対しての憧れみたいなのが強いことからサックスっぽくない吹き方を意識していた、みたいなことを言ったのですが、逆にというかその同じ考えの延長上で、運動的な観点からのフレーズ作りというか、サックスだからやりやすいというよりは、サックスだからこそできるフレーズ作りはしたいと独奏を始めてからよく思うようになりました。手癖ではなく頭の中で歌える内容だけが真実、みたいな事をちょっと洗脳されるような感じで大学で教え込まれたわけで(場合によってはそうだとは思いますが…)いまだにそのトラウマ(?)が残りつつ、直接的にピッチではなく本当は運指などからアイデアを得るのも全然ありなんだなと思えるようになってから、運指の形での反復やそれを元にしたモチーフの変形やそこから生み出されるリズムを大事にしてます。独奏だと特にそういうのを凝縮してちょいちょい出してるつもりです。(ドラムとかピッチ主体じゃないだろ、って話で、サックスもサックスとしての役割だけを演じる必要性は全くないということでもある。ドラムから得るアイデアとして、ピッチ感をピンポイントで捉えるのも極端にざっくり捉える事もできるし、みたいに更に書きたいことが増えてしまいますが…)

ピアノ(ベースやギターなども)だと全て均等にキーが配置されているので鍵盤奏者でなくとも形をそのまま動かそうとすると実際に目で見れたり視覚的な想像をするのがかなり楽なのですが、サックスなどの管楽器の場合はキーの配置が均等ではなくそれができないので指の押さえた時の感触を頼りに形の移動をイメージするという感じです(当然他の楽器でこれがないのではなく、サックスの場合はほぼこれしかないということ)。視覚的な情報ではなく、指の感触と想像に大きく頼るのでここにサックス特有の楽器と体との関係性が生まれると思ってます。また前のセクションに戻りますが、この「頼っている」という感覚を例えば「大事にする」という感覚に差し替えるだけで全然吹き方も吹く内容も大きく変えられます。

そして、木管楽器の運指の特徴として、割と無限にコンビネーションが存在するということ。正解とされる音を出すためには運指が決まっているのと同時に、テクスチャーを変えた音や正解と正解の間の音だったりを出すのであればサックスの場合楽器のバランスを保つための右手の親指以外の9本の指と抑え方によっていくらでも運指のパターンを作り出すことができる。(右手の親指を使うこともたまーにあります)。この存在しない運指を頭の中のイメージと紐づけることで耳に導かれるような結果とは全然異なる音列やリズムを作り出せる。

もう一つサックスだからこそできる運指からなるフレーズ作りの考え方として、例えばピアノだと左手と右手でのミラーリングみたいな動作はとてもやりやすいのに対してサックスだと厳密なミラーリングから得られる効果はほぼないので、その大幅な仕組みの違いから生まれるサックスにしかできない運指の動作がそこには存在すると思ってます。右手と左手の独立具合や音域によってのそれぞれの依存性みたいなものからなる動作の制限と可能性など。
これより具体的な話をするとネタバレのしすぎになる気がするのでしませんが、まあ、大体こんな感じのことを考えてます。

締め

もう一個セクションを書き始めたんですけど、流石に長くなりすぎるのでまた今度にします。楽器とリスナーとの位置関係や聴く側の身体との関係性とか体調・コンディションや空間的な動作から発生するアイデアとかもうちょい別の事も書きたいので近々#6か#7で。
この「独奏について」シリーズを読んでくれるミュージシャンやライターもいたりして、とても嬉しいです。普通の事ばかり長々と書いているだけですが、読んでくれる人がいるとなんだか楽しいです。
もしよければぜひ一度独奏を聴きにいらしてください。

次の独奏
5/23(日)東池袋 KAKULULU
独奏 1 set only (90mins)
開場 15:00 開演 15:30 終演 17:00
¥2800 + 1 drink order
完全前売制
チケット→https://kakululu-matsumaru.peatix.com


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