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浩太朗君の世界を感じとるということは、私がわたしに出会う”旅”であったのだ

今回ご紹介するのは、ユーコさんよりいただいた寄稿です。

【浩太朗君への手紙】

私がはじめて浩太朗君の絵を見て「!」となったのは、濃紺の富士山の作品をじかに見た時です。手紙と題したこの文章のしょっぱなから、こんなことを書くのは大変不躾だと思うのですが、それまでは浩太朗君の絵を「なんとなくあるよくある絵」くらいに思っていました。私の叔母が養護学校の教諭だったので、子どもの頃は、養護学校の文化祭に行き、生徒さん達が描いた絵や、陶芸、お裁縫の作品を見ていました。
子どもながらに「みんなパワフルで、エネルギーに溢れた絵を描くんだな」と感じていました。そうした感覚の延長で、知人から紹介された浩太朗君の絵のカレンダーを見た時には、さほど心に響いていなかったのです。みんながすごいすごいと言ってるから、きっとすごいんだろう、くらいに。今となっては、大変お恥ずかしく、悔やまれる思いです。

さて、話を元に戻します。浩太朗君の富士山の絵を見た時、まずびっくりしたのは、その筆圧の力強さ。そして荒々しさ。存在感。私自身も、富士山を絵のモチーフとしてよく描き、さらに日本画が好きなので、数々の画家の富士山を見てきたつもりです。その時の印象としては、富士山は、まずシンメトリーに近い「ハの字」の形の美を追求してしまうこと。更に、高さや大きさという「日本人が持っている普遍的な富士山のイメージ」に引っ張られて絵を描いてしまうのではないかと思います。
対して、浩太朗君の富士山は、私達が幼い頃から富士山を見て育った、無意識的な記憶を呼び起こすというのか、富士山の存在そのものを見せてくれていると感じました。例えば、極寒の冬の朝、学校までのバスに乗るために駅で見た富士山。雪が裾野まで深々と降り積もり、藍色の空は沈黙を守りながら朝日が昇るのを待っている。荒々しい山肌が浮き彫りにされて、「かつて火山が噴いていたのか」と、ただただ畏敬の念が湧く。
こうした原始的な感覚を想起させる富士山が描かれていたことに驚きを覚えました。「この人はモチーフが持っている表面的な美を追って作品にしているのではない。もっと深い真の部分で物事を見つめているんだ」。こうした感想を持ち帰ることができた私は、瞬く間に浩太朗君の作品に引き込まれていきました。
それからというもの、浩太朗君の絵と対峙する時は、真剣勝負になって、絵を通して画家・小林浩太朗の眼線で世界を思索するようになったのです。「どう感じていたんだろう?」「この詩はこういう意味かな?いや、こうとも取れるな」………すると、気づいたのです。浩太朗君の世界に対峙した時の自分というのは、本当にほんとうに素直なまま、嘘偽りのない、飾り気のない、五感で感じるままの、「もうひとりのじぶん」に、うっかり出会ってしまった。浩太朗君はどう感じているのだろう?という問いかけは、同時に自分の中のじぶんに「わたしはどう感じているの?」と問いかけることとつながっていたのです。浩太朗君の世界を感じとるということは、私がわたしに出会う”旅”であったのだと、後から気がつきました。

あらためて、いま、思います。私は浩太朗君のそばで「ねえ、この詩はどういう意味なの?どんな想いを込めて描いたの?」と会って直接聞けたらな、と。それが出来たら、私はどんなに幸せだっただろうと。そして強く思います。あなたの願いが、この世界の、宇宙のすみずみまで届きますように。あなたの魂が今日もすこやかであってくれますように。


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