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【Story of Life 私の人生】 第70話:真夏の恐怖 Part 2

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第69話:真夏の恐怖 Part 1 をお送りしました。
今日は、前回の続きをお話しようと思います。

高熱は下がらず、潰れた水疱の痛みに耐えながら、月曜の朝を迎えました。
まずは病院に電話して、皮膚科の外来に繋いでもらい、金曜の診察から戻ってから、かなり悪化しているので、今日診察して欲しい旨をお話しして、予約外で診てもらうことを了承してもらいました。
そして、前日準備した荷物を持って、朝8時過ぎに家を出たのですが…
通常だったら、アパートから駅まで、3分くらいしか掛からないのに、高熱でフラフラ状態となっていて、途中何度も休憩して、冗談抜きで「牛歩」状態。
最寄り駅まで、何と徒歩で45分以上掛かってしまいました!
駅の階段の昇り降りも同様で、駅の入口の階段から改札を抜けて電車のホームに到着するまでに20分くらい掛かりました。

朝の通勤ラッシュの時間帯だけど、電車は下り方向だから空いていて、何とか座ることが出来ましたが、私が乗った電車は、所沢の手前の駅止まりだったから、終点で乗換えをする羽目になってしまいました。
この時点で、家を出てから2時間くらい経っており、時計は10時を回っていました。

外来の受付は11時まで。
元気な時でも、病院まで30分以上掛かる場所にいましたが、こんな状態だから、どう考えても間に合いそうにありません。
公衆電話を探して病院に再度連絡し、皮膚科に繋いでもらって、今の状況を詳しく説明しました。
電話の対応をしてくれた皮膚科の看護婦さんが、外来担当の先生に状況を説明してくれました。
少し待っていると「受付時間を過ぎても、ちゃんと診察するので心配せず、気をつけて来てください」というお言葉をいただき、少し安堵しました。

公衆電話から乗車ホームまで10分くらい掛かり、次の電車に乗って所沢に到着。
いつもなら、西武新宿線に乗換えて、新所沢駅まで行き、そこから歩くのだけど、この日は当然乗換えする気力は全く無く、駅からタクシーで病院に向かいました。
道が渋滞しており、病院まで20分くらい掛かってしまい、到着したのは11時45分。
タクシーの料金を支払う時に、1万円札しか持っておらず、運転手さんに渡したら「お釣りが無いから、両替して来い」と言われてしまい…
フラフラなのに会計に行き、両替をお願いして、どうにか支払いを完了しました。

受付に行き、診療をお願いしたのですが、診察受付は既に終了しているからと、診察受付を断られました。
「皮膚科で診療してもらう約束をしている」とお話ししても、受付の方は「出来ません」の一点張り。
「皮膚科に確認して欲しい」と粘って、やっと皮膚科外来に問い合わせをしてもらうことが出来ました。
すぐに、皮膚科の看護婦さんが受付まで迎えに来てくれ、受付の方に状況を説明してくれたお陰で、どうにか診察受付完了。
その時点では、もう立っていられる状態ではなく、車椅子で待合室まで連れて行ってもらいました。

他の方の診察が終わるまで20分位待って、やっと診察室に呼ばれました。
この日の担当は教授の先生でしたが、私の姿を見るなり「大変だ!至急個室の無菌室を準備して!」と、看護婦さんに指示しているではありませんか!
この時、私の体温は40度を超えており、意識は朦朧とした状態。
水疱は全身に拡がっていて、クレーターのような穴から、ジクジクした液が出てきていて、全身に何とも言えない痛みが出ていました。

診断の結果は、重度の「カポジ水痘様発疹症」、つまり「全身ヘルペス」でした。
ヘルペスウイルスが目に感染したら失明、脳に感染して脳炎を併発する可能性が高いということと、私が無顆粒球症であることに加えて、皮膚科の病棟に入院している子供達への感染リスク回避が必要ということで、無菌室の個室で隔離をする必要があるということでした。
そして「あと少し来院が遅れていたら、死んでいたかも知れない」と言われ、かなり驚いたと共に、死の恐怖を思いきり感じました。

色々とお話をしながら、入院前の検査をしていたのですが、その時「何故金曜日に病院に再来しなかったのか?」と聞かれたので、助教授の先生から「アトピーの方が酷い」ことと「大人ならこの程度の水疱は問題ない」ということで、全く相手にされなかった旨をお話ししました。
教授の先生は、改めて甲状腺の主治医の先生から届いた「紹介状」と、金曜日の診察カルテの詳細を確認して「多分無顆粒球症を見落としていたらしい」と仰り、謝罪してくださいました。
「普通なら、週末に救急車で病院に来るレベルなのに、今日は1人で電車で来たのか?」と聞かれたので「通常1時間程度で来れるところを、4時間弱掛けて電車で来た」とお話ししたら、少し呆れていらっしゃいましたが、一方で、入院の準備を万端にして来たことを知り、かなり驚いていらっしゃいましたっけ(汗)
それだけ「緊急入院慣れ」していたということでしょうね(笑)

病院側の入院の準備が整い、受付で事務手続きをしてから、家に電話で「やはり入院になった」と連絡し、アルバイト先にも電話で「暫く入院することになった」と連絡を入れました。
アルバイト先からは「退院したら、戻って欲しいので、必ず連絡して欲しい」と言ってもらいました。

個室の無菌室に入るとすぐに、看護婦さんから「全身裸になるよう」に言われ、全身の水疱の状態の確認と消毒をしてもらいました。
消毒液が乾いたところで、全身に抗ウイルスの塗り薬を塗ってもらい、頭や顔を含んだ全身を包帯でグルグル巻きにされ、その上に薄い「入院着」を着て、点滴を打ってもらいました。
部屋の鏡を見たら、漫画に出てくる「ミイラ」そのまんまの姿で(爆)
可笑しいやら、情けないやらで、ただただ苦笑いするしかありませんでした。

冗談抜きで、こんな感じになっていました

夕方、母が様子を見にきてくれましたが…
毎度の如く、防護服を着て部屋に入ってきたのですが…
私の姿を見るなり「ブッ」と吹き出して「こんなに面白いものは見た事がない!」と大爆笑しだしました。
母が来て直ぐに、教授の先生と助教授の先生がお見えになり、病状の説明と、治療方針、金曜日の診療ミスに対する謝罪をされ、教授の先生が主治医として責任を持つというお話がありました。
母は「確かに診療ミスだったかも知れないけれど、娘が自分の意思で3日間我慢したのだから、それはお互いさま」という内容を先生方に伝え「しっかり完治するまでよろしく頼む」とお願いしました。
その後母は、先生方が帰った後も10分くらい病室にいたのですが、私を見る度に爆笑状態。
私も鏡で自分の姿を見ているから、母の気持ちも良くわかるのですが、何となく複雑な心境でした。

余談ですが、母は帰りの西武線の中で何度も思い出し笑いをして、周りの乗客の方たちから、かなり「白い目」で見られたとのことです(汗)

入院初日は、固形物を食べる元気もなく、点滴で栄養補給をしてもらいました。
また、熱が全く下がらず、水疱の痛みも酷くて、寝ていられず、ナースコールで看護婦さんを呼んで、宿直の先生に診てもらいました。
解熱剤と痛み止めの点滴を追加してもらい、数時間後にやっと眠ることが出来ました。

翌日からは、毎日「包帯を解いて、消毒をして、薬を塗って、また包帯を巻く」の繰り返しで、全身ミイラ状態から解放されるまでに2週間ちょっと掛かりました。
入院した時点で抗甲状腺薬の服用は停止したのですが、熱が完全に下がるまでに、やはり2週間位掛かりました。

8月の最終週に入院して、退院したのは9月の最終週でした。
この時、学校は前期が終了するタイミングだったのですが、4月に入学して、9月までの半年間で、入院生活が3ヶ月弱という状態。
夏休みが1ヶ月半あったから、実際の出席率は1/3しかなく、学校側から「出席日数の問題で、この時点で留年が決定」という連絡がありました。
今回は、両親が授業料を支払ってくれたのですが、流石に留年で1年分余計な出費をさせてしまうことに申し訳なさを感じていました。
また、今まで以上に「穀潰し」攻撃をされるのも、とても嫌でした。
母に確認すると、後期の授業料はまだ支払っていないとの事だったので「9月いっぱいで学校を退学したい」と伝えました。
母は少し落胆した様子でしたが、私は「これ以上、穀潰しは出来ない」と伝え、「何らかの形で学んだことを生かす方法を見つけるから」と、約束しました。
退学後は、アパート暮らしを続け、アルバイトで生計を立てることにしました。

1984年が始まってから、9ヶ月の間で死の恐怖が3回と、学校の中退が2回という、何とも「お粗末」な状態。
やる事なす事、全てが中途半端な状態になってしまう結果に、苛つきました。
「自分の人生」や「将来」に、光を全く見出す事が出来ず、出口のないトンネルに入った状態のまま、恐怖に慄いたこの年の夏が終わっていきました。
そして10月に入り、21歳の誕生日を迎えました。
「夢も希望もない」21歳のスタートを切ったのでした。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第71話:自暴自棄 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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