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【Story of Life 私の人生】 第1話:私の両親 Part 1 〜 父編

こんにちは。木原啓子です。
「人生の棚卸し」として、【Story of Life 私の人生】をスタートすることにいたしました。
私がどのような人生を送ってきたかを、振り返ってみようと思います。
お付き合いいただけると嬉しいです。

まずは、私の両親についてのお話。
両親の生い立ちは、少なからず私の人生に影響を与えてきたと思います。今日は、父の生い立ちについてのお話です。

父の生まれ育った、藤野の風景

父は昭和4年10月、神奈川藤野の山奥で生まれました。
9人兄弟の末っ子、お母さん(私の実の祖母)は、父を産んだことで産後の肥立が悪く、数日で他界したそうです。
父の叔母(実のお母さんの姉)の家に、当時男の子が居なかったこともあり、生まれて数日で養子となり、何も事情を知らない父は「長男」として、暫くの間は大切に育てられていたそうです。
勉強大嫌い、ワガママし放題で、まるで「殿様」のような毎日だったようですが、ある日予想外の事態が起こります。
父が11歳の時、養母に男の子の実子が生まれたため、父の「長男」としての役目が実質的に終わりを告げたのでした。
その時、自分が「養子」であること、隣の家に住んでいる「いとこ達」は、実の兄弟姉妹だったと知らされたそうです。
それ以来、父はいわば「居所が無くなった」戸籍上だけの「長男」となります。

余談ですが、父の実兄にはプロの音楽家が2人おります。
1人は作詞家。
昭和20年代後半から30年代初めにかけて、有名な歌手のレコードB面に数曲詞を提供。その後は、NHKの「みんなのうた」の童謡や、学校の校歌、市町村の歌などを作詞していました。
もう1人は、有楽町にあった日劇ダンシングチームのバックバンドで、プロのサックス奏者として活躍していました。
そんな音楽家を輩出した家系なのですが、父はとんでもない音痴。
でも音楽は好きだったのでしょうね、私が中学生の頃からカラオケにハマりますが、家族としては、ドラえもんに出てくる「ジャイアン」のリサイタル状態で大迷惑。どれだけ発狂しそうになったことか…

話を元に戻します。
旧制高等小学校を卒業した父は、東京都の公務員となります。
勉強大嫌い。国語も算数もからっきしダメ、手先も不器用で、何も出来ない父。
どう考えても、事務仕事なんて無理。
一体どんな経緯で東京都の公務員として採用されたのか???
父によると、「当時は公務員しか働き口がなかった」とのこと。
今の私からすれば、何とも羨ましい限り!
どれだけラッキーボーイなんだ!
配属先は上野動物園の管理事務所、私が小学生になるまで働いておりました。

就職した頃は、藤野の山奥から始発で上野まで通勤していたそうです。
最寄りの藤野駅までは、当時車も走れない登山道をひたすら歩くしか手段なし。
1時間に1本あるかどうかの中央本線を使って、片道3時間半は掛かる通勤生活。
さすがに身体がもたないということで、東京に上京して下宿生活を始めます。
下宿先では、朝夕の食事は供されたそうですが、大家さんご夫婦が共働きのため、毎日出てくるおかずが「アジフライ」だけだったそう。
それだけが原因ではないのでしょうが、結果として栄養失調状態となり、父は結核に罹患してしまいました。
母と出会う前に肺結核の手術をし、2年の療養期間を経て、上野動物園に復職しています。
背中の肩甲骨に沿って、まるで時代劇に出てくる侍の刀で切られたような、大きな手術痕がありました。
また気管支喘息も持っており、いつも咳きこんでいて辛そうでしたが、亡くなるまでずっと、ヘビースモーカーでした。

私は少なからずこんな父親の影響を受けて育っていくことになります。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は 第2話:私の両親 Part 2 〜 母編 に 続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪



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