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【Story of Life 私の人生】 第68話:栄養専門学校入学

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第67話:The End をお送りしました。
今日は、栄養専門学校に入学した後のお話ししようと思います。

臨床検査技師養成所を退学することになってから、わずか数日の間で栄養専門学校に行くことになり、1984年4月10日の入学式を迎えました。
今回は母の強い勧めに従った訳ですが、母は母なりに私の将来を考え抜いてくれたのだろうなと思います。

同級生達のほとんどは、高校から現役で入ってきた子達だけど、私は2年間他の専門学校に行っていたから、2つお姉ちゃん。
彼女たちにすれば、話しずらかっただろうなぁと思うのですが、話をしても話題がかみ合わず、なかなか打ち解けられずにいました。

授業の方は、確かに臨床検査技師養成所で学んできた科目とオーバーラップしているものが多かったのですが、殆どが「概論」程度の内容だったから、もう退屈でしかありませんでした。
楽しかったのは、食品学、栄養学や調理実習といった、全く新しい科目くらい。
調理実習では、日本料理、西洋料理、中華料理、製菓がそれぞれあったから、出汁の取り方とか、ソースの作り方などの基本を実習で取り上げてもらっていたので、とても楽しかったし、役に立ちました。
また包丁の使い方も、正しい切り方などを学ぶことが出来たから、ある程度「自己流」からの脱却は出来たかも知れません。
とはいえ、元々が不器用なので人前で披露できるもんじゃありません(笑)

入学当初は、家から学校に通っていたのですが…
2年間、全寮制の学校にいたこともあり、もはや「私のスペース」というものは、我が家のどこにも無い状態で、私が高校の頃まで使っていた部屋は、父のカラオケ「ジャイアンリサイタル」の場として占領されており、かなり肩身が狭い状態となっていました。
また、事あるごとに「出戻り」とか「穀潰し」と言われ続けることに、だんだん嫌気がさしてきて。
あまりにも居心地が悪いから、4月中旬には「家を出よう」と考えるようになり、アパートを探し始めました。

新居の条件は「家よりも学校に行きやすい」ことを念頭において、池袋にある学生相手の不動産屋さんで部屋を探したところ、西武池袋線の練馬駅から徒歩3分で、6畳+3畳+キッチン1畳で、家賃22000円(風呂なし、トイレ共同)という、部屋が広い割には、かなり格安な物件が見つかりました。
商店街も銭湯も、アパートから徒歩1分以内ということで、立地的にも最高でした。
ちなみにアパートの大家さんは、1階に住んでおり、2階に3部屋で、店子は「女性のみ」という条件でした。

部屋の仮申し込みをした日、両親に「家を出る」と話をしました。
一度は大反対されましたが、一方で「私が邪魔だ」ということは紛れもない事実だったし、アパートから我が家まで、自転車で15分程度の距離だったこともあり、最終的には了解してもらいました。

栄養学校の学費は、両親がそのまま出してくれることになりましたが、家の契約料や家賃、生活費などは、全て自分で出すという約束をしました。
そこで、母に預けていた「バイト代」の貯金通帳を受け取り、これ以降は自分で管理することになりました。
2日後にアパートの本契約をしてすぐに、寮から持ち帰ってきた「私の家財一式」を新居に運び込み、新生活をスタートさせました。

余談ですが、「格安な家賃」は、それなりの「理由」があった訳で(笑)
大家さんの家は、天理教の教会だったので、朝5時と夕方5時に、太鼓・拍子木・鐘を使って、大々的な「お勤め」があったのです。
引越翌日の朝5時、日の出前に「お勤め」が大音量で始まり、驚いて飛び起きたことを良く覚えています(爆)
でも「慣れ」とは恐ろしいもので、数日もすると「お勤め」=「時報」と認識するようになり、朝も夕方も「ああ5時か」と思うだけになっていました。

学校への通学時間は25分程度となり、実家から通う半分程度になりました。
今回は、親が学費を出してくれているから、サボることなく真面目に通っていましたが、とにかく「授業が退屈」ということがネックで、殆どの授業で居眠りをしていたと思います。
殆どの先生方や、クラスメイトから白い目で見られていましたが、ミニテストは毎回満点だったから、誰も文句を言えずという感じでした。
今思えば、可愛げのない「嫌味な生徒」だったなぁ。

検査学校の彼氏とのお付き合いは、そのまま続いていましたが、あちらは3年生になって国家試験対応の勉強も始まり、日曜日に会うことしか出来なくなりました。
2年間、入院中以外はほぼ一緒にいたから、とても寂しくなりましたが、同じ沿線に住んでいたし、週末は一緒にいることが出来たから、何となくそのまま続いていた感じでした。
でも学校の話を聞くと無意識のうちに「悔しさ」と「悲しさ」が込み上げてきて、情緒不安定になっていたような気がします。

学校とアパートの往復する日々が過ぎていき、5月後半になりました。
ある日の朝、脂汗が出るくらいの腹痛に見舞われました。
少し蹲っていましたが、吐き気がするぐらい酷いので、盲腸(虫垂炎)ではないかと思いました。
母に電話をして、とりあえず子供時代にかかっていた外科の先生の所に伺うことにして、痛みに耐えながら自転車に乗って病院に向かいました。
診察してもらうと、やはり「虫垂炎の疑いがある」ということで、血液検査をしたのですが…
通常なら白血球数が1万以上になるはずなのに、私の場合は3000と正常値の下限。
「気のせいか、何か変なものを食べたのかも」ということで、診察はおしまい。
アパートに戻る元気はなく、実家に戻って痛みに耐えていました。

翌日、その翌日と、痛みはどんどん酷くなっていき、毎日外科の先生の所に伺って血液検査をしても「問題ない」で帰される日が数日続き…
さすがに母が見かねて、翌日は外科の先生の所に一緒に来てくれました。
痛みの我慢の限界状態まできていた私は、先生に向かって「盲腸を切っても死なないから、とにかく切ってください!」と怒鳴ってしまいました。
この時、母も一緒に加担してくれて、やっと外科の先生が折れてくれましたが、甲状腺の既往歴があるから、少し大きな病院を紹介するということになり…
生まれて初めて「救急車」に乗って、池袋にほど近い病院に搬送されました。

外科の先生からの申し送りが「仮病かも知れない虫垂炎」だったから、受け入れ側の病院では「簡単な手術だからすぐに終わる」って感じで、部分麻酔をして手術室に運ばれました。
手術が始まりましたが、部分麻酔だから先生の話も全部聞こえるのですが…
お腹を切った途端に「こりゃ酷いや!すぐに全身麻酔して!」と言い出すではないですか(驚)
そこからバタバタと全身麻酔をして眠らされ、気がついたら夜になっていて、個室のベッドの上にいました。

母に状況を聞いてみると、盲腸が既に破裂していて、腹膜炎を起こしていて、手術に5時間以上かかったらしいです。
無顆粒球症だから「白血球数3000」は、私にとってはかなりの「高値」だったということで…
そこを見落とされてしまったのは想定外でした。
1週間近く放置してしまったから腹膜炎の症状はかなり重く、また麻酔も2重にかけてしまったので、その後遺症も1ヶ月くらい続き、寝ていると天井がグルグル回るし、起きると吐き気が止まらない状態でした。
結果として、単なる「盲腸」だったはずなのに、1ヶ月半も入院する羽目になりました。
この病院の先生が、春日部の主治医の先生と話をしてくれ、今後このようなことが無いようにと、退院後は所沢の防衛医大に通院することにしてくれました。

栄養専門学校に入学して、わずか2ヶ月未満で1ヶ月半の入院。
退院後すぐに、いくつかの科目の試験がありましたが、検査学校でのベースがあったから、授業を殆ど受けずとも試験には全く影響が出ずに済みましたが、いきなりの戦線離脱状態で、両親からの「穀潰し」攻撃は結構キツくなりました。

これで終わってくれたら、どれだけ幸せだっただろう…
この後も沢山の苦難が待ち受けているとは、思いもしませんでした。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第69話:真夏の恐怖 Part 1 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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