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映画「81/2」フェリーニ監督 1965年制作を観て

マストロヤンニ主演、映画監督グイードの役。アヌーク・エーメ。クラウディア・カルディナーレ出演。

今はない六本木俳優座シネマテンで40年前に観た。その時は、グイードは子どもの頃からいつも逃げ回っていて、43歳になった今も映画作りの重圧、夫婦関係、愛人関係から逃げ回っている大人になり切れないモラトリアム人間だと思っていたが、なぜクライマックスを失念してしまったのか不思議である。

始まりの映像は印象的だ。車の渋滞に巻き込まれたグイードが車の中で窒息しそうになり、車の天窓から抜け出し、天から吊られた凧のように中空に漂う。それを渋滞した車から人々が見つめる。

映画作りは修羅場だという言葉が途中に出てくるが、本当にあらゆる関係者が矢継ぎ早に監督グイードに話しかけ、それに短く素早く応答するさまはウッディ・アレンの映画を思い出した。年代的に言えばこの映画の方が先に出ているが、映画という一つの世界を作る人間は、神と同様に一度に多数の声を聞かなければならないのだなあ、と思った。

現場に乗り込んできた愛人、呼びよせてみたものの現場に来てみれば女優達に囲まれて目移りしている夫のグイードに怒りを新たにする妻(アヌーク・エーメ)、てんやわんやを更に混沌とさせる人間関係。カメラテストなどでふるい落とされた女優の恨みから、女性たちがグイードに集団で抗議をして、「おお、フェミニズム」と思ったら、洗濯掃除をニコニコして行いながら「ようやく分かったわ、あなたの望んでいることが」と妻が皮肉まじりに笑顔で言う。

このようなごちゃごちゃした環境で突然クラウディア・カルディナーレが役名もクラウディアで現れる。彼女が来てくれたなら映画はできる、と確信したグイードは彼女に礼を言うが彼女は他の女性と同じようなことを言い出し、グイードを絶望させる。

映画の発表会でグイードは言葉を発することができず、子どもの頃テーブルの下を逃げ回ったように逃げ回る。突然バン!という音とともにグイードが倒れ、映画のセットの解体が始まる。グイードがピストル自殺をしたように思わせて、グイードは生きていてクラウディアの登場とともに映画を完成するという意欲に満ちた展開となる。そこでは皆が白い衣服をまとい一列に長い列を作り手をつないで踊る。おそるおそる妻の手を取りグイードも列に連なる。あのことも、このことも、全てが人生なのだ、という肯定感に満ちた、即ちグイードは人生を引き受け、映画を完成させたエンディングであった。最後の字幕には「人生はお祭りだ」と書いてあった。

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