きょう人と話してわかったこと
救いということばがいつも胸をしめつける。
だれの救いにもなれないくせに、だれかに救われることばかり願っている。
そしていつだって救いの手を差し伸べてくれる人はいるのに、本当の意味でだれにも救われた気持ちになれないのは、だれかの救いになるだけの強さややさしさをわたしが欠いているからだろう。
そこまでは、わかっているのに。
ともだちということばにあこがれていた。
ともだちのいないわたしらしいとじぶんで笑う。
わたしがうっかり、ずっとともだちでいてね、と言ってしまった時の困惑した姉さんの顔が忘れられない。
ともだちねぇ。わかった。
姉さんは、そう言った。
ともだちは確かめるものじゃない。
わたしは本当のバカだった。
「みんなそうですよ」
電話の向こうで紳士が言った。またつまらない打ち明け話をしてしまったあと。
あの晴れた日の彼女も、あたたかい声のあのひとも、いつだったか同じことを言った。
それが救いのことばだということを、いまなら、頭ではわかるけれど、きょうもわたしはそのことばに救われはしなかった。
みんなそうなのに、どうしてわたしはダメなんだろう。
大事なものを欠いている。
やさしい物語を読んだ。
つうっとなみだが流れたけれど、じぶんでもその意味がわからなかった。
やさしさは受け手が決めることだなんて調子にのってほざいていた頃もあったけれど、本当はやさしいひとになりたかったよね。
なりたかったよね。
大事なものが欠けている。
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