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紺地に花柄の日傘

ここ2週間ほど軽いうつ状態が続いている。
おまけに昨日は朝からひどい雨で、起き抜けからずっと頭痛がしていた。
こんな日は出かけたりしないに限る。約束があったって丁重にお断りすればいい。
でもそれが離れて暮らす娘との約束ともなれば、話は別だ。

のそのそと動き出し、もたもた支度をして、のこのこ出かけていく。
電車は思っていたよりは空いていて、二人分のスペースをまたいで座る老婦人の横に半人分スペースを空けて腰掛けた。
本は開かなかった。
代わりに開いたスマホで、人目も気にせず一心不乱に撮りためた写真で花を描いた。

絵を描くのは苦手だ。
美術の成績はよくもわるくもなかったけれど、誰かの絵を見てあんなふうに描きたいと思っても、そんなふうに描けた例がなかった。
それならばと、じぶんなりに描いてはみるけれど、やはり思ったようには描けなかった。

中学の授業で描いた自画像が、その頃大嫌いだった先輩になんとなく似てしまったのを思い出すといまでもぞっとする。なぜか泣きたくなる。

娘は絵がうまい。
いったいどうやったらあんなふうに描けるのか。
せっかく描いた絵を保育園の先生に笑われて悔しかったから。
いつだったか、絵が上達した理由を彼女はそんなふうに言っていた。

父も絵がうまかった。
小説家を目指しながら、一時は画家になることも夢見ていたらしい。 
もしかしたら、なんでもよかったのかもしれない。
彼は何者かになりたがっていた。
わたしは、そんな父に似ている。

電車に揺られながら描いた花は、なかなかよかった。
描いたと言ったって、それはただじぶんで撮った写真を指でなぞり、明るさや色合いを変えたりするだけで、絵を描くのとは違う。
それでも、それは今のわたしの唯一の楽しみで、そうして描いた花を、わたしはきれいだと思う。

自画自賛。それでいい。

ここ2週間ほど、どんどん内側に向いている。
失敗や欠落のたび、それ言う必要ある?と言い返したくなるような想像力を欠いた言葉を浴びせかけられていた。
でも、それさえ、過敏なわたしの過剰な反応と判断されるのが怖くて、言い返すことも、誰かに話すこともできないまま、心だけがぎりぎりと削られていた。

ハンバーガー屋さんの狭いテーブルを挟んで話す娘はとてもきれいで、わたしは何度か見惚れてしまった。
口紅が落ちるのを気にしながら、それでもとても美味しそうに季節限定のハンバーガーを頬張る姿がどうしようもなく愛らしい。

話したい人がいるなら話したらいいじゃん、話したほうがいいよ、と娘は言った。
そんなときわたしの脳内には決まって中島みゆきの「しあわせ芝居」が流れる。
若い頃からそうだった。
長いこと、そういうじぶんにうんざりしてきた。

対等でありたい。
対等であることを測るのは難しい。
対等だと思わせてくれる人はいるけれど、わたしはそれを信じない。
それは、わたしがわたしをなかなか信じようとしないからだ。
過信に怯えている。悲しくなりたくないから。
信じさせてくれる誰かを、なにかを、ずっと探している。いや、待っているだけ。
甘えているだけ。ずっと。
そんなだから、いつまでもわたしはわたしを信じようとしない。

好きなものはただ好きでいいのに。

でもさ、だってね、と思う存分マイナス思考をぶちまけたり、こんなのおかしいかな、と考える間もなく転がりでてくることばたちを拾い集めることもなく転がるままにしておけたのは、いつぶりだろう。
幾度となくよく似てると言われてきたふたつの笑い声は、宙を自由に飛び交い、まるでひとつのいきもののようだった。

駅までの道すがら、助手席から見た雨上がりの空はとても美しかった。
もっと話していたかった。
がんぱってね、またね、と肩に置かれた手にそっと触れてみれば、それは変わらずやわらかくしっとりとしていた。






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