大罪の清算

「日比谷のエレベーターの中で刺されて死んじまったひとがいてさ」

夏の終わりの湖を背に父はそう言った。
小さな民宿を営む実家のお客用の食堂を私たち家族はホールと呼んでいた。
その日、湖に面したそのホールで父と私は別々の作業をしながら話し込んでいた。
よく晴れた夏の終わりの午後、微かに波立つ湖は降り注ぐ日差しにキラキラ輝いていた。
私は小学校5年生くらいだったろうか。
父はそれより35歳年上の、禿げあがった頭を撫でながら笑う少し変わった陽気なおじさんだった。

田舎の小さな観光地で生まれ育ち、おませでおセンチで、じぶんとは無縁のドラマティックな話が大好きだった私は、うんそれで、と言いかけて、それで、のところだけを慌てて吞み込んだ。
うん、と言って見上げた父の顔は、なんだかひどく困惑しているように見えた。

父はそのまま黙り込み、それから少しして気を取り直したかのように言った。
「物事にはいろんな面があってさ、だから誰のせいだとか誰が悪いだとかは簡単には決められないもんなんだ」
それは、私たちがその日の議題として取り上げていた“あの戦争は誰のせいで誰が悪かったのか”の結論のようでもあり、まったく別の話の途中のようにも思えた。
そしてそれきりその日の話はおしまいになった。

高校生の途中で実家を離れるまで、私はよくそうやって父と話し込んだ。
深夜テレビを見ている父の邪魔をしたこともあったし、母に呆れた顔をされることは日常茶飯事ですらあったけれど、私は父と話すことが好きだった。

父の話には時々、もういなくなってしまったひとたちが登場した。
父と同様に山スキーを愛し雪崩に巻き込まれてしまったスキーの仲間。学校の石碑の前で事切れていた文学仲間。風に煽られハンググライダーもろとも凍った湖に叩きつけられて亡くなった学生時代からの親友。
そのなかで幾度かその、日比谷のエレベーターの中で死んでしまったひと、のことに触れたことはあった。けれどその話だけはいつも表面をさらっと撫でる程度で、やっぱり父はそれ以上話そうとしなかったし、私も訊いてはいけないような気がしていた。

いつしか私は、日比谷のエレベーターのそのひとを男性だと思うようになっていた。というのは、父の昔の話にはあまり女性が登場することがなかったから。
たまに登場する女性は、父が書生のようなことをしていた下宿先で少しだけ習ったというピアノの髪の長い先生と、学生寮に忍び込んで一緒に消毒用のアルコールを舐めた看護学校の女の子たちくらいなもので、ねえ、好きなひととかいなかったの、なんてありきたりな恋話の振りにも、父は、そりゃいたさ、と答えるだけだった。

私が中学生になるほんの数日前の深夜、いつものように話し込んで、じゃあそろそろ寝るね、と部屋を出ようとした私を呼び止めて、父は言った。

「これから先、なにがあってもおれはおまえの味方でいるからな。たとえおまえが人を殺してしまうようなことになったとしても、おれだけは変わらずおまえの味方でいるから。それだけは忘れないでいてくれ」

普段の父からはちょっと想像できないような雰囲気と言葉と、なにより突然のことにぽかんとしている私に、うん、じゃあ、おやすみ、と父は言い、なんだか照れたような頼りない笑顔を見せた。

私が家を出てから電話で話すたび父は、生きててくれりゃあいい、と言った。
その言葉の裏にはいつも、もっと深い思いが見え隠れしていた。
なにがあっても死ぬなよ。生きろよ。誰にも、じぶんにさえ、殺されずに生き抜けよ。
そんな思いが込められている気がしていた。

父の傍らにはいつも本があって、それは谷崎潤一郎だったり小林秀雄だったり瀬戸内寂聴だったり、はたまたゴッホの画集だったりもしたのだけれど、一時期、遺言集のような本や殺人犯の手記なんかが置かれていたこともあった。父はいろいろな事件に関わった人々の心理にとても興味を持っているようだった。特に、猟奇的と言われるような事件の。それから、田宮二郎さんと沖雅也さんの自殺には、私たち家族がちょっと驚くほど気を引かれているようだった。
そして私はなぜだかずっと、父が死にたがっているような気がして、不安でならなかった。
父はよく、もっと歳を取ったら中国の山ん中にでも行って暮らしてぇなぁ、などと言った。汚れていない人たちだけがいるところ、とも。

そもそもどうして父は、こんな山奥で小さな土産物屋をはじめることになったのか。当時、私はその理由さえ知らなかった。

これは私がもっと大人になってから聞いた話だけれど、父は若い頃、まだ私の母と結婚する前、ひとりで北海道に移住しようと考えていたらしい。
それに気づいた父の“おふくろ”、私にとってはばあちゃん、私は会ったことがない、に、長男のくせになに言っとるか、と大反対されたのだそうだ。
そうして家業は継がないまでも遠くには行かせん、と、“おふくろ”の監視付きで、その頃切り開かれたばかりの山奥の湖の畔に移り住んだらしい。

父はこの“おふくろ”のことも、私が大人になるまであまり話さなかった。
だから私は40歳を過ぎるまで、父方のばあちゃんが癌で亡くなった、ということさえ知らなかった。
山奥でひっそりと商売をしながら父は、病院には行かねぇ、と頑な“おふくろ”に、家督を継いだ弟と交代でモルヒネの注射を打ってあげていたのだそうだ。
あとから聞いた話や、8人きょうだいの父の姉や妹たちのことを考え合わせると、私はこの“おふくろ”は魔女だったんじゃないかと思う。
父の実家に掛けられていた“おふくろ”の写真は、“おやじ”、私のじいさん、同じく私は会ったことがない、のそれよりどんと構え、とても強くて怖そうに見えた。

山スキーが好きだったという父は、何度かホワイトアウトに遭遇した話もしてくれた。
辺り一面、白とも黒とも判断できない世界で遠くに見えた明かりに父は、ああ、ついにお迎えが来たか、と思い、その明かりを目指して進んだそうだ。
「そしたらそれが下のスキー場のホテルの灯りでさあ」
そう言って父は笑った。
私は何度その話を聞いても、父の笑顔が、助かってよかった、と言っているようには見えなかった。どこか、嘲笑のような笑い顔だった。


「日比谷のエレベーターの中で刺されて死んじまったひとがいてさ」

実家のホールで父がそう言ったきり黙ってから30年ほどが経ったその日、父と私は病院の小さな個室にいた。
3畳ほどの広さのその家族用の待合室には、入り口を入って右寄りに足を折り畳める低い小さなテーブルが置かれていて、左奥の隅には子ども用の絵本やおもちゃが並ぶ2段のカラーボックスがあった。
父と私は座布団を出しその低いテーブルを挟んで座り、母の手術が終わるのを待っていた。母の病名は癌だった。

父と母は仲の良い夫婦とはとても言えなかったけれど、母が癌になったことで父は少し母への態度を変えたようだった。“おふくろ”のことを思い出していたのかもしれない。叔父と交代で打った注射の話はこの待合室で聞いた。
その日、私たちはどちらもなんだか妙に緊張していて、特に父は緊張のせいか普段はあまり話さないようなことを口にしたりした。

先日エコー検査を受けた、という話から、観光協会の慰安旅行で温泉街のソープに行った、という話に流れ込んだときは笑った。もちろん父の話だ。エコー検査を受けたことがある人ならどんな話か想像がつくかもしれない。
下ネタかよ。そう言ってケラケラ笑う私を置き去りにして、父はもう次の、近所のおじさんが足を滑らせて川に転落して亡くなった話に移っていた。
そんなふうにくるくる変わる話題の中には、あのピアノの先生や看護学校の女の子たちも登場した。学校の石碑の前で亡くなった文学仲間は自殺で、父が第一発見者だったことは初耳だった。

私は思いきって父に訊ねてみた。
ねえ、あのエレベーターの中で刺されて死んだ人って男の人?
父は一瞬、驚いたような表情を見せ、おまえよくそんなこと知ってるな、おれそんな話したっけ、と言って小さく笑った。

「おんなのひとだよ、おれのことが好きだったんだ」

その女性には婚約者がいた。“いいなずけ”というやつ。
でも父と出会い、父のことを好きになり、その日、エレベーターの中でおなかを刺されて亡くなった。刺したのはその婚約者だった。
父は友人から連絡をもらい、新聞読んでそのことを知ったのだそうだ。

これは私の想像だけれど、相手の男性とも父は知り合いだったのだろう。友人だったのかもしれない。
父が彼女のことをどう思っていたか、どうするつもりだったか、は訊かなかった。私が生まれてから40年ほどの間に父と交わした会話や父が見せてきた態度から、私にはそれが容易に想像できた。

あの日彼女が日比谷のエレベーターの中で命を落とさなかったら私はこの世に存在していただろうか、などというのはまったくもってくだらない話だけれど、父は私に彼女の人生を生きてほしかったのではないか、という考えはあながち間違いではないかもしれない。
それは、ただ、誰にも、じぶんにさえ、殺されることなく生き抜いてくれ、というだけの願い。

最初に聞いてからずっと、「日比谷のエレベーター」というフレーズは、私の胸のあたりでカタンカタンと小さな音を立て続けていた。まるで小さないびつな多面体が、傾斜が起きるたびあっちへこっちへと転がり続けているみたいに。
夏の終わりのあの日、私は、エレベーター奥の壁にもたれかかり蹲り血を流しながら死んでいった人の姿を想像した。その時そのひとの顔に表情はなく、長い月日の途中で男性の顔があてがわれ、ついに悲しげな表情をした芯の強そうな女性の顔になった。

狭い待合室で斜に向かい合い、父の淡々とした告白を聞きながら、散らばった点のようだったそれまでの父に纏わる数々のエピソードが、ぐにぐにと蛇行する紐に結わえられながら一本の線になり繋がっていった。
その紐をピンと引きたどった先に、父を愛した女性の死があった。

ああ、このひとは、父は、三人分の罪を背負って生きてきたのか。
繋がった点のひとつひとつを思い出しながら、私はそう思った。
男を裏切った女の罪と、裏切った女を刺した男の罪。そして、女に男を裏切らせることになってしまった自分の罪。
それは、父がひとりで背負わなければならない罪だったろうか。
三人分の罪を受け止め、それと向き合い、時に逃れようとしながら、父はやっぱり、死を目指しながら生きてきたのかもしれない。

いつからか、電話をするたび何度も同じ話を繰り返すようになった父は、
「いろいろわからなくなってきちまってさぁ」
と決まって言うようになった。流行り病のせいで会えなくなって久しい。デイサービスのお風呂が気持ちいいのだと言っていた。

ねえ、パパはもういろいろわからなくっていいんだよ。
昔のことは、なにも思い出さなくていい。
両親の面倒を見ている弟の迷惑も顧みず、離れて暮らす私はいま、ひとり勝手なことを願っている。


父が何度か繰り返した話の中に、赤が印象的な話がふたつある。
ひとつは、まだ観光地として賑わう前、実家の前の湖で入水自殺があるたび消防で駆り出されたという話。引き上げた女性の薄いワンピースのお腹の下あたりが血で汚れていたのを忘れられないのだと、父は言っていた。

もうひとつは、実家に向かう山道の途中で車にはねられて死んでいた鹿のこと。
横たわる鹿のおなかからはたくさんの赤いものがあふれ出ていたそうだ。父はそれを、はねられる直前におなかいっぱい食べた赤い木の実がこぼれ出たのだと言った。
そんなことがあるだろうか。
聞くたび私はそう思ったけれど、父は、何度この話を繰り返してもそれを訂正することはなかった。




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