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目に見えるものと見えないもの について考える 対談に向けて

今回の企画展では、キュレーターの先生が私の作品を理解するためには「目に見えないもののの存在を理解する必要がある」と、パンフに書いてくれました。

実際、私は、目に見えないものの存在について、考えてきました。そして、春日を被写体に選んだのは、目に見えないものの存在が顕著だったからです。
最初に春日を訪れたとき、私は谷山の廃村で、菊の花を撮りました。誰もいない集落で、墓は並んで立ち集落に向かって、川向うから見守っている。その墓に行くには川を渡らなければならない。その川を渡れない人のためでしょうか、こちら側に花立があって、菊が備えてある。その菊に光が当たっていました。
春日を歩いていると、このように、何かひかれる存在があり、それを収めました。それを見て、何かが写っているという人がいて、自分は何が写っているのか、知りたかったのです。

言葉を持たないので本を読むと、ぴったりきたのが、「古代の光」という折口信夫の言葉でした。「信太妻の話」に出てきます。狐が人間に嫁いで子を産むものの、菊にあたった光を見ているうちに先祖返りし、狐の国に帰ってしまう。全てをおいて、先祖返りさせる光を古代の光と言いました。

お祭りといった行事も、古代に帰るための儀礼。人は未来に向かって、何かを忘れていきますが、祭りを通じて過去を思い出すことが必要とのこと。私見ですが、人はたまに、行事を経て古代に帰らなければ、何か支障を来す気がします。コロナ禍で何か、深いところが傷つけられているような気がします。
そのように考えると、自分は、春日のなかで、古代、過去に帰る光ばかりを追い求めている気がしました。

また、自分の場合、その道具は写真ですが、そのためには聞き書きがなければならない。聞き書きで得られるのは古老が語る過去の出来事。過去の認識といってもよいです。

例えば、大きな岩を写真に撮影しても、それは岩でしかありません。しかし、「山の講の日に、山に入ると、神様が布を振った。大きな岩の上から」こう書くと、岩は他の意味合いをもってきます。神様が布を振った時代にまでさかのぼります。言葉を添えてみると、岩が違ったようにも見えませんか?これが、自分の、目に見えないものへの追求で言葉を使う意味なのです。
写真は現時点でしかりませんが、言葉とは考えてみれば、変遷こそあれ、受け継がれた、過去からのものなのです。
炭を焼くとき、炭窯に荒神様のために塩やお酒をかける、その行事は過去からのものなのです。

上の作品のモチーフになっているのは、戦争で帰還しなかった人の石像、戦争から帰ってつくりなおした鐘楼での行事、琵琶湖、沈む前の徳山ダムでみた要塞のような工事現場、増えすぎた邪魔者の鹿、です。この作品は、過去を語るというより、レクイエムでもあり、その対象を考えると、自分の嘆きがあります。大きな力にあらがえない小さなものたち。

大岩


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