形而上の罪って何なんだ?
子どもの頃、NHKか何かで見たドキュメンタリーが記憶に残っている。
事故に遭い、周囲の方々が亡くなったけど自分は奇跡的に生き残った方へインタビューしている番組だった。
事故から何十年も経っているけど、「自分だけ生き残ってしまった…。」という意識が抜けないのだそうだ。
小さい頃の私は、「せっかく生き残った体だ。前を向いて人生楽しもう。」とならないもんなんだな。と思って観ていた。
大人になって、大澤真幸さんの「自由という牢獄」という本を読んだ。
”形而上の罪”という話を読んだ時、小さい頃観たドキュメンタリーの記憶と繋がった。
小さい頃見たドキュメンタリーで苦しんでいたあの人は、”形而上の罪”に苦しんでいたのだ。
形而上の罪とは?
ヤスパースというドイツの哲学者が、罪を4つに分類している。
刑法上の罪、政治的な罪、道徳上の罪。これで尽くされているような気もするが、4つ目として”形而上の罪”を定義している。
わかるようでわからん。
本にはいくつか形而上の罪に苦しんでいる人の話が載っていた。
自分が相手の立場になることも十分にありえたのに、自分はそうならなかった。それはなぜだかどこにも答えがない。みたいな状態の時に人は”形而上の罪”を背負い苦しい気持ちになるようだ。
ぼんやりとは理解できてきた。
実は”形而上の罪”は巷に溢れているのかも?
私はふと兄のことを考えた。
兄は生まれつき障害があり言葉を話せない。
子どもの頃、同じお腹から産まれてきたのになぜこんなにも違うのか、私だけが健康体に産まれてしまって申し訳ない的な気持ちを持っていたのを思い出し、これって形而上の罪的感覚だよなー。と思った。
もっと軽いものでいくと、例えば、仲良しグループで受験に向けて頑張っていたのに自分だけ受かってしまいなんだか申し訳ない気持ちになる。とかも軽い形而上の罪なのかもしれない。
そう考えると、形而上の罪を背負って苦しんでいる人は実は巷に溢れているのかな。と思う。
人間の心って不思議だな。
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