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能動態と受動態の間に

私たちの言葉には、能動態と受動態がある。

例えば
叩く(能動態)叩かれる(受動態)
とか。

でも古代ギリシャにはその間に当たる”中動態”というものがあったらしい。

例えば
景色をみる
あの人に惚れた
こういう言葉は中動態に属するらしい。

確かに私たちは「今から景色みよう!」と能動的に景色をみるわけじゃない。でも景色側から見させられてるかと言われるとそうでもない。

好きになる人も「あの人のこと好きになろう!」と思って好きになるわけじゃない。でも好きにさせられた。とは言い切れない。

こういう風に、能動態と受動態にしっくりと当てはまらないものが中動態として分類されていたようだ。

そうするといろんなことが中動態に当てはまるな。と思えてくる。

だけど、現代は能動態と受動態をきっちり分けることを求めてくる。
特にビジネスの現場では、自分が選択したことは、それがそうせざる追えなくて中動態的にやった事柄も、「でも選択したのはあなたでしょ?」と能動的な行動かどうかを分けようとする。

自責で考えろ。ともよく聞く言葉だ。
私もビジネスの場ではそういう思考をするよう心がけている。そうなるしかなかったじゃん。という場面でも、自分はここでいういう動きが取れたんじゃない?と自責で振り返りを行えば、次回に活かせる。と考えるからだ。

でもこれを繰り返していると、心がカサカサしてくる。
自分の素直な心の愚痴に蓋をすると、ずんと疲れた気持ちになることがある。

そんな時は、自分で自分に中動態を許してあげたい。
受け身だったわけじゃないんだよ〜…でも積極的にそうしたかったわけでもないんだよね。と。

そして自分の子どもや夫の中動態も認めてあげるようにしたい。
「だってこうしかならなかったもん。」そういうことってよくあるのだ。

そんな時に「でも選んだのはあなたでしょ。」「そうするって決めたのはあなただよね?」「じゃあ違う人のせいなの?」と能動態と受動態をきっかり分けようとすると、逃げ道がない家庭になりそうだ。

「そうだよね。そうなっちゃったんだよね。」と一回中動態の存在を認めて話を聞いてあげたい。

“中動態”
心の中にその概念を持つと、楽になれる気がします。





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