AI・BI論を超えて―貨幣なき「他給自足」社会へ

 私は4月15日付のnoteで「ポストコロナ社会で加速するポスト資本主義化」と題して、ポストコロナ社会がAI・ロボットによる人間労働の代替を加速化させ、ベーシックインカム議論を再び活発化させるだろうことに言及した。そのことを踏まえ、今回はベーシックインカムのあるべき姿と、その先のポスト資本主義社会について考えてみたい。

 なお、私の体系的なベーシックインカム論は旧ブログ(望鵠記)の(長期連載)「ロボット社会の到来とベーシックインカム」以下を参照されたい。


貨幣と労働

 今日、地球上のほぼすべての人たちの生活は、お金=貨幣なしには成り立たない。そして、多くの人間は、なんらかの仕事をすることによってお金を得ている。

 その昔、狩猟採集社会においては、人々は狩りをし、あるいは果実などを採集することによって生きる糧を得ていた。その限りにおいて、人類は他の動物たちとなんら選ぶところがなかった。

 農耕社会になり、田畑を耕す人、そのための機具を作る人等々、分業が発達すると、それらの生産物を交換する手段として、人類は貨幣を発明した。しかし、農耕社会においては、大部分の人々、つまり農民の生活は自給自足が基本であり、凶作によって餓死する危険は常にあったものの、貨幣がないからといって飢え死にする心配はなかった。

 人々が貨幣なしに生きていけなくなったのは、資本主義の時代になってからである。農地を追われた人々は、生産手段を所有する人に雇われ、物を生産するために自らの労働力を提供することによって、それと引き替えに、生きていく手段として賃金、つまりお金を稼いで暮らすようになった。

 今日、10代後半からおよそ60代くらいまでの「健常者」は、家事労働を含めてなんらかの仕事に就くことによって、直接的ないしは間接的に貨幣を得て生活している。「働かざる者、食うべからず」とは、「働かない者はお金を得られない」ことと同義である。かつて自給自足を基本としていた農民も、資本主義社会ではそのシステムに組み込まれ、お金なしに生活していくのは難しい。

「人間の仕事がAIやロボットに奪われる」

 AIやロボットの発達(一般的に「第4次産業革命」と呼ばれている)により、今世紀になって「人間の仕事がAIやロボットに奪われる」と言われるようになった。例えば、今後10年~20年の間に、約半数の人々の仕事がAIやロボットに取って代わられるなどとして、雇用の危機が叫ばれている。

 しかし、これは本当だろうか。ある人は、いくらAIが進化し、様々なロボットが開発されても、人々が仕事を失うことはないという。資本主義社会において、技術革新が一時的に失業者を生み出しても、技術革新自体が新たな仕事を生み出して失業者を吸収し経済が成長してきたのと同様に、AIも一時的に人々の仕事を奪っても、AI自体が人々に新たな仕事をつくりだすというわけだ。

 AIやロボットの発達を資本主義の新たな段階、すなわち「第4次産業革命」と捉える限り、この考えは正しいように思われる。しかし、AIやロボットによるイノベーションとそれまでの技術革新との決定的な違いは、技術革新が一時的に人々から仕事を奪っても、新たな生産力を生み出してより高度化した生産手段が新たな労働需要を生み出したのとは異なり、AIやロボットがひとたび人間労働に取って代わると、新たに創造されるであろう産業分野も完全にAI化、ロボット化され、二度と人間労働が必要とされなくなる点である。

 例えば、レジスターが発明され、それまでソロバン勘定をしていた商店にそれが導入されると、2人いた店員が1人で足りるようになり解雇される。しかし、レジスターは小売業界に革新をもたらし、やがてスーパーマーケットが登場して多くの店員を雇うようになった。

 だが、セルフレジが発明されスーパーにそれが次々と導入されると、やがてスーパーは完全無人化されるだろう。こうした小売業界のイノベーションは、セルフレジにとどまらず、ドローンや自動運転車による宅配、ロボットによる接客等々に及び、町の風景を一変させるが、だからといって仕事を奪われた人々に新たな職場をつくりだすことは決してない。

 また、かつて電子カルテの普及は、総合病院はもとより街の開業医の医療事務を効率化し、医療に革新をもたらして、医療機関はより多くの患者を集めるようになったため、看護師をはじめとした医療従事者を新規に必要とするようになったかもしれないが、AI診断や手術ロボットがひとたび医者に取って代わり、看護ロボットが患者の看護を担当するようになると、医療の世界は再び医師や看護師を必要とすることがなくなる。

 実は、10年後、20年後と言わず今すぐにでも、AIやロボットが人間労働に取って代わることのできる分野は決して少なくない。例えば上述した小売業界だ。すでにセルフレジが登場して久しいが、スーパーマーケットではここ数年の間にそれを導入する店が目立つようになってきている。また、コンビニでは試験的に無人店舗化が図られている。

 技術的にスーパーやコンビニ、あるいはファストフード店やファストファッション店を無人化することは、今現在でもさほど難しいことではあるまい。だが、一気にそれをなし遂げようすれば、莫大な設備投資が必要になる。1台数百万円のセルフレジを何台も導入するより、時給900円のパートタイマーを何人も雇った方がはるかに安くすむ。無人コンビニを1店舗開店するよりも、フランチャイズ店を何店か開店して高いロイヤルティを取った方がはるかに効率的なのだ。

 しかし、これはあくまで費用対効果の問題に過ぎない。セルフレジがもっと普及して安くなれば、大手スーパーチェーンが完全セルフレジ化するだけでなく、地方の小さなスーパーもセルフレジを全面的に導入するようになるだろう。

 かくして、今後、10年~20年の間に多くの人が仕事を失うことになるだろう。今は、何か資格を持っていれば安定した仕事に就けるといわれているが、AIの前に資格が何の役にも立たない日がくるだろう。

ベーシックインカムだけがAI社会の矛盾を解決する

 例えば単純に考えて、就業人口の半数の人がAIやロボットに仕事を奪われれば失業率は50%であり、文字通り街に失業者が溢れることになる。そして、それらの人々が再び仕事にありつける可能性がないとなれば、雇用保険制度は用をなさなくなり、生活保護制度も破綻してしまうだろう。

 分かりやすく考えるために、AIやロボットがすべての人の労働を奪ってしまったと仮定してみよう。人間労働に取って代わったAIやロボットは、人間が生み出していたモノやサービスよりはるかに多くの質のいいモノやサービスをより早く生み出すことができるようになるだろう。だが、そのモノやサービスを消費する消費者が、仕事を失いお金がなければ、いくらモノやサービスが満ち溢れていても、それを消費する者はどこにもいない。これでは経済が回らなくなってしまう。

 このジレンマを解決する唯一の方法は、そうなる前に、例えば失業率が30%を超えた当たりで、AIやロボットが生産する価値のうち、かつて人間労働が生みだしていたのに等しい部分を、すべての人々にベーシックインカム(BI)として還元することである。恐らく国家は「AI税」とか「ロボット税」という名目で、企業からBIの原資を徴収することになるだろう。

 これはよく考えてみれば理にかなっていることだ。なぜなら、人間から労働を奪ったAIやロボットは、人間のようにその労働の対価=賃金を要求することはない。つまり、労働者を解雇してAIやロボットを導入した企業は、人件費の分を丸儲けすることになる。

 もちろん、上述したようにAIやロボットを導入するには設備投資が必要だし、維持費もかかる。設備が古くなったり新しいタイプのものが出れば、更新しなければならない。しかし、そのための費用など、人間労働に取って代わったAIやロボットの生産能力に比べればなんということはない。企業は「AI税」や「ロボット税」を払っても、なおかつ充分満足のいく利潤を生み出すことができるだろう。

 そして、BIは仕事を失った人々に生活手段を与えるだけでなく、経済をこれまで通り循環させることを可能にする。

財源論や怠惰論を無化するAI・BI論

 私がベーシックインカムの思想に出会ったのは今から十年以上前のことであり、私自身はその頃から、上述したようにAIやロボットが人間労働に取って代わるポスト資本主義社会を展望したうえで、その新たな社会への架け橋としての役割を果たすものとしてBIを位置づけていたのだが(『希望のベーシックインカム革命-ポスト資本主義社会への架け橋-』Kindle版、絶版)、当時は、AIやロボット、もしくはポスト資本主義論との関連でBIを論じる者は皆無で、もっぱらBIの思想が資本主義初期からあったとか、それが社会民主主義的思想のみならず新自由主義とも親和性があるといった面が強調される一方で、論点となっていたのは主に財源論であった。

 すなわち、すべての国民にひとり数万円から10万円前後のBIを保障するには莫大な財源が必要になるので、それを何で賄うのか、所得税か、消費税か、はたまた相続税か。そして、果たしてそれで本当に財源を賄いきれるのかといった懐疑論が、とりわけ日本ではリベラル派において優勢であった。

 さらに、もうひとつの論点は、「働かざる者、食うべからず」の常識を覆すBIが支給されたら、人々は誰も働かなくなってしまうのではないかと危惧する議論であった。それに対しては、いくつかの国の特定の地域で行われているBIに似た制度やBIの社会実験の結果をもってして、「BIは決して人々の労働意欲を削ぐものではない。人々を怠け者にするものでもない。むしろその逆だ」という反論がなされた。

 しかし、私が上で概略したような論点に立つと、こうした議論はすべて意味をなさなくなる。今直ちにBIを導入しようとすれば、どこの国でも財源が問題となり、議論が百出するだろう。だが、あと10年から10数年経てば、財源は「AI税」「ロボット税」でということに誰も異論を差し挟まなくなり、また、額の多寡はともかく、それでBIを支給するに十分な財源が確保されるようになるに違いない。

 一方、後者の議論については、そもそも「働かざる者、食うべからず」が通用しない社会になっている。働くのはAIでありロボットであって、「彼ら」が人間の「食べるもの」を提供してくれる。かつて社会主義社会の「悪平等」が人々の労働意欲を喪失させた、というようなことを危惧する必要が全くない社会になっているのだ。

貨幣も経済も消失する「他給自足」社会

 私はベーシックインカムを、資本主義社会からポスト資本主義社会へ至る過渡期社会で、架け橋としての役割を果たすものとして位置づけた。では、資本主義のシステムが完全に終焉し、新たな時代(ここではとりあえず「ポスト資本主義社会」としておく)に突入したら、BIはどうなるのだろうか。

 ポスト資本主義社会では、人々の生活に必要なすべてのモノやサービスをAIやロボットが生産してくれる。それだけでなく、古くなったAIやロボットに代わる新たなAIやロボットも彼ら自身が再生産する。AI・ロボットはもはや人間の手を離れて完全に自律・独立した「生態系」を形成する。(恐らくその所有者の手からも。AI・ロボット生態系は、人間社会全体の共有財産と見なされるだろう。)

 ベーシックインカムは文字通り基本所得、すなわち人間が生きていくのに必要最低限の所得であり、それ以上の贅沢な暮らしをしようとすれば、人々は依然として働いて収入を得なければならなかったが、ポスト資本主義社会では、人間の暮らしに必要なすべてのモノやサービスはAIやロボットが提供してくれる。

 したがって、ポスト資本主義社会ではBIすら必要でなくなる。それどころか、資本主義社会において人間が生きていくために必要不可欠であったお金=貨幣そのものが必要ではなくなる。しかし、交換手段である貨幣がなくなることによって、人間社会は再び自給自足社会に回帰するのではなく、いわば「他給自足」社会を新たに形成することになるのだ。

 モノやサービスを生産するのは人間社会から独立したAI・ロボット生態系であり、人間社会はAI・ロボット生態系から供給されるモノやサービスを消費するだけである。つまり、ポスト資本主義社会では生産・分配・消費システムである経済さえもが消失するといっていいだろう。

 人類はかつて、狩猟採集社会では他の動物たちと同様に、生きるために他の動物を狩り、植物を採集して生きていた。農耕社会になって、貨幣=お金を仲立ちとして生きる糧を得ることを学んだ。そして、資本主義社会においては、自らの労働力を売ることによって貨幣を手に入れ、貨幣をモノやサービスと交換すること(=消費)によってのみ生きることができた。しかし、ポスト資本主義社会で、人類は生きるため(=食べるため)にいっさい労働する必要がなくなる。人類は究極の「自由」を手に入れるのだ。

食うためでなく自己実現のために生きる超文明社会へ

 では、究極の自由を手に入れた人類は、その自由を何に使うだろうか。BI反対論者が懸念したように、食べて寝てセックスして酒やギャンブルに明け暮れるのだろうか。現代にも過去にもそのような自堕落な人々が一部存在したように、ポスト資本主義社会にもそのような人々はいるかもしれない。

 しかし、大多数の人々は、BIのある社会ですでに部分的に行ってきただろうように、自由にした時間を全的に、様々なかたちで自己実現のために使うことだろう。持って生まれた能力や才能を開花させるために努力するだろう。好きな道を究めるために邁進するだろう。ある人は他人の役に立つ活動に生きがいを見出すだろう。またある人は、まだ誰もやったことのないことに挑戦するだろう。

 そうしたすべての人間活動が、新しい「労働」のかたちとなるだろう。若きマルクスが命名した資本主義社会における「疎外された労働」は、「自己実現のための労働」にかたちを変えることだろう。

 そのとき、人類は初めて他の動物たちと峻別される特別な存在となり、超文明社会のとば口に立つだろう。


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