正義の違和感

この世は痴呆が多いのか、それとも多様性の枠の箍が外れてしまったのかわからないけれど、私にとっての"違和感"が多すぎる。

私の心が狭いのか、そういうタイミングなのかもしれないけれど。
飲み込むべき言葉や態度を受け取るとそう思う。

「この人は、自分も同じことをしているのだけれど」

そういう人は、何度も何度も、自分の中の違和感を受け止められずに、周りや環境のせいにして、相手を切り捨てていくのだろう。

それは確かに多様性なのかもしれないけれど、多様性の発展性にはつながらないことを、本質的に和歌でいうこころなしの人間はわからないのだから、手を差し伸べることもできない。見守ることしかできず、相手の自己を中心に置いた思考からうみだされる口先だけの言葉を黙って受け止めて、その人の抱えている自分自身への怒りへの代弁者としてせめてもの気持ちから謝ることしかできない。

そういう局面に心をすり減らしてばかりいると、きっと遠くに逃げたくなる。

「本当は悪い人じゃないから」

優しい気持ちを持ち続けてしまうと、嫌な側面に焦点を当ててしまう自分の努力が足りない気もして、本当に、突発的に、今いる一番高い場所から身を投げてしまいたくなる。

ただ、私に関しては、自分のことが大好きな人間だから、他人の学のない感情から汚された心から、このように文章で整頓できることを確認して、気持ちを落ち着ける。

こういう時、少し前、
「書かれた側は傷つくよ。発言した人と同じことをしているよ」
と説教をしてくる人がいた。

間違ってはいない。けれど、心の底から怒りと悲しみが湧いた。
同時に、無気力でもあった。
あきれた正義をふりかざす人たちが、この世界にどれくらい多くいるのだろうと。
私が心の底から恐怖を覚えた出来事たちの所在を、ないがしろにされた気がして涙が出た。

黙る優しさと発言する優しさ、どちらも私は認めたい。
けれど、私はやっぱり自分がとても大切だから、発言したい。
私を傷つけたことのある人たちを黙って認めたり守ることはできない。
正しくもあるし間違ってもあると思う。
でも、それを判断するのは、未来の私であってほしい。

再度。
昨今、多様性の枠の箍が外れてしまっている気がする。
個々に、推しだしたい個性があって、踏み入られたくない"私"がいる。
受け入れられない環境と、受け入れていきたい出来事もあるだろう。

私の父が昔教えてくれた、環境学生物学の多様性とは異なる理解で世界が拡がりだしている。

それも固定的概念と後ろ指をさされることなのかもしれない。
けれど、押し付けるつもりもないのに、私含め知識の浅い人と思われるたちの逃げとして、
「押し付けるな」
と高圧的に発言されると、大変、残念に思う。

ただ、「自分もそうなのかもしれない」という恐怖におぼれて「変わらなければ」と自戒しすぎることは、少しだけやめにしたいと思う。

散文になったけれど、私がとても大切にしていた年下のお友達に、このようなことを伝えたかったなという祈りを込めて。

その子は、私に「生きてみるってこういうことだと思うよ」という作品を届けたいとあの時言ってくれたから。

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