叔母に触れて

母方の親族が、先方、絶えてしまった。

最後の人は、母の妹だった。
56歳だっただろうか。

豊かな人だった。

音楽をしていた。
福岡で暮らしていた。
義理堅い人だった。
故にふらふらしている私はよく怒られた。
ここ数年はどこか頼るような寄り添うような言葉や顔つきが見受けられた。

最後に会ったのは、先月の初めのことだった。
父の手術で福岡に宿泊していて、一日延泊した。
西中州のホテルだった。
叔母の家からは大分近い。
その時はすでに、叔母が病気を患っていることを知っていた。
会いに行きたかったが、その体調の中、今年初めの叔母の夫と実祖母の葬儀に行けなかった私と会って負担にならないか案じた。

せめて手紙だけでもと思い、朝方早めに出て叔母の家に向かうと、一匹の柴犬がこちらをのぞいていた。
叔母の飼っている子だった。
その時は、叔母の世話をしているという人が手綱を持っていた。

「いつもはこの子こっちにこないの」

そんな会話をして、手紙を渡し、私は父の入院する病院に向かった。
その日、夕方に帰京することになっていた。、
昼過ぎに父の目を覚ましたところを確認して病院を出た。
ちょうど、叔母の家に行くくらいの時間ができた。

ノーアポでうかがった私を、叔母は明るく出迎えてくれた。
犬も尻尾を振って応対してくれた。
少しだけ会話をした。テレビを見た。
何気ない会話をした。日常を過ごした。

ひとつ言うなれば、叔母がとある出来事に対して
「何を知ってるっていうんやな」
と、父と同じような怒り方をしてくれたことがうれしかった。

どこに住むのか、人間関係はどうなのか。
私の生活に興味を持っていた。

もしかすると、大多数の人たちにとって、そういう個人に踏み入るような世間話をすることは、毎日の中で当たり前のことなのかもしれない。

けれど、私はそれがとてもうれしかった。
理由はなく、何気ない会話ほど、作られた物語の台詞に勝るものはないのだから。

叔母には子供がいない。
だから、私に逝去の連絡が来たのは亡くなった日の夜のことだった。
先にSNSで知って、父から連絡が来た。

そして、今、夏休みシーズンで高い飛行機を断念して、新幹線で博多へ向かっている。

叔母と仲が良かったのかと言われたら、多分そんなことはない。
叔母は多分私のことがそんなに好きじゃなかった。
母以上に怒られた。筋が通らないことがあれば説教もされた。
(思えば、母は怒りはしたが、説教はあまりしなかったような気がする)

その叔母が、その最後の会話の中で、
「あんたに墓の世話させたくないから、まだ死ねん」
と顔を強張らせて話すものだから、
「嫌じゃなかったら一緒に探せるよ」
と、おずおずというと、少しだけ安堵したような嬉しそうな顔をしていたことを覚えている。

それは、私の母が10年前ほど前に亡くなる直前、最後となった別れの挨拶の時と重なるものがあった。
同じように、母があまりにも顔を強張らせてこちらを見送るものだから、
「大丈夫、私は大丈夫」
と安心させるためにニコニコ手を振った私に対しても、母は安堵したような顔をしていた。

叔母に関して心残りがあるとすれば、最近、高校時代からの友達と一緒に一曲作った。
結構いい曲だったから、聴いてほしかった。
セクションは叔母と同じボーカルディレクション。
数日前に公開されたが、遠慮をして伝えることができなかった。

言わない後悔より、言う反省を心掛けてきた私が唯一相手の心情を慮る相手。

それが叔母だったのかもしれない。

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