我
寺に駆け込んだ。
高円寺は長仙寺。真言宗。ご本尊は、不動明王。
理由は、自分の声ではない「ごめんなさい」で身体があふれかえってしまったから。
スピってるとか、頭おかしいといわれてしまえばそれまでだなあと思いながら、
こうして文章に起こして世界発信を試みている自分の自己承認欲求の強さに、
べたべたとした、人間の垢の臭いを感じる。
少し前、狂ったように「ごめんなさい」と嗚咽する人間を見てしまったからだろうか。
何か、憑き物がついていたのかもしれない。
境内は、曇りの日の夕方ということもあり、人気がない状況だった。
そのため、ベンチに座って、
手を合わせながら、呼吸を荒くしている原因に、考えを巡らせていた。
ピンとくるものにはあたらず、
ゆっくり潮が引いていくようにパニックが収まっていく中で、
おそらく、私は無理をしていたのだなと思った。
誰が環境が悪いというわけではなく、
公私ともに、私は何と相性が悪いのかがわかっていなかったため、
目線の高低を無理して合わせていたのではないだろうか。
私が迷惑というわけではなく、
異物を受け入れることになった、周囲が大変に迷惑をしただろうと申し訳ない気持ちになる。
そのイライラの解消のために、理不尽や不条理な事柄を、
私に浴びせたくなったことも理解する。
最近、10年来の先輩や友人と再会することが多かった。
当時、「なんだかなあ」と、互いにおもって離れた人や、なんとなく疎遠になった人。
そんな人たちと再会して、話して感じたのは、安心感だった。
仲直りするでもなく、当たり散らすでもなく、
安定した土台に戻っただけだった。
私が「苦しい」と感じていた少し前の環境の中の何人かも、
本当はこちら側ではないのかなとおせっかいなことも考える。
でも、それは、自力で気づかなければならないことだからと、
おせっかいの凸凹を閉じる。
考えや文化の多様性の見識を知る枠が広がり
様々な自己都合の良い考え方を手にすることができる昨今だからこそ、
私たちは、より狭量な視点の「我」をもつことが求められているのかもしれない。
ポストモダンに、人間は、集合体としてではなく、より個の細分化として終結していくイメージが、
ぼんやりと頭の中に、何かの絵画のような感覚で吞まれていく気の持ちようで、
息を整えながら「我」を吐き出す文章を散らしている。
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