小休止#10
yes or no という曲があります。
私の曲です。サブスクで配信されています。
これを撮ったのは4年ほど前のことだから、20代前半。アラも多いですが、エンジニアの岩田純也さんがとてもいいアレンジをしてくれたおかげで、どうにか形になっています。
タイトルは、 To be, or not to be, that is the question.(生きるか死ぬかそれが問題だ。 / ハムレット)から来ています。
歌詞はとてつもなく暗いです。最近、歌いながら思います。
『嫌いな人が増えていく そんな自分が醜く見えるよな もっといい人間だと思ったんだよな それでも無理だよな』という出だしです。
思えば、これを作った時は、とても暗い気持ちでした。
いろんな人の醜さにもまれて、「イイ人でいなきゃ」「こんな人間にならなきゃ」という鎖で自分をつないで笑顔は引きつっていた気がします。
「今はどうなのだ」と問われたら、「まあ、仕事じゃ大して変わらんがな」と答えるのですが、プライベートはどうにか「笑いたくなかったら笑ってないよ」と言えるくらいには大人になった気がします。
これが成長なのか退化なのかは、それぞれの思考にゆだねます。
さて。日本人は、最近「yes or no」にこだわっているなあと思います。
白黒つけようぜ!正しくあろうぜ!ってやつ。
ちょっと前にはやったプレゼン法も、ジョブズ式のものなので「わかりやすく、短く」というものでしたね。
けれど、日本の文化って曖昧がゆえに発達してきたものが多いので、割と矛盾している人が多いなあと思っています。
「短く」という割には、長く話してしまう人が多かったり、「わかりやすく」という割には、自分だけにわかりやすく話してしまう人が多かったり。
めんどくさいので「うんうん」頷くと後で痛い目を見たり。
社会人の皆様、お疲れ様です。
私も、割と4年くらい悩んでいたのですが、小説を書き始めて、
「あ、この人の時間と私の時間は感じ方が違うんだ」
ということに気づいて(遅いとかは置いて)、説明の速度が変わった気がします。
私にとっては曖昧でも、相手にとっては私が曖昧であったり。
人間というのは、そもそも曖昧な物体の集合体であるが故の、この矛盾に割と悩んでいくんだろうなー、正しい事を増やしていっても、世の中正しくはならんのだろうなーと思っています。
最近は、そんな話を私と違う軸で考えて教えてくれる人たちが増えたのでとても新鮮です。面白いなあって思います。
Skream!のインタビューでも実は、『yes or no』については真相は曖昧にして答えていたのですが、この曲は、きっと、忘れ物だったんだと思います。
「あんまり売れてないのに、自分語りなんて恥ずかしいわよ」
っていう声も聞こえてきますが、自分で自分のことを話してあげないと、誰にも自分が伝わらないので話しちゃいます。
時々、私は、忘れ物は忘れた頃に返ってくると感じます。
戻ってきた忘れ物のことは大体忘れて、日常となって私を回しているんだけれど。
『yes or no』は、当時失った物事に、最初と最後を伝えたくて作った曲だったと思います。
最近では、「最後の言葉をええ声で歌うには、もう、会いたい人に精一杯届けるしかない」と一生懸命だったのですが、本質はきっとそこです。
そう思うと、作品というのは作り手の中でも意外と曖昧で、発信するたびに形を変えていくのだなあ、としみじみとしたりします。
ちょっとかんがえればわかることでも、私は経験をしなければ理解をしないのでとてもいい経験です。
そして、述べた通り「結論最初!」という人種では無かったようで、私は結論や本当に言いたいことは最後に持ってくる性格らしいことも改めて感じます。
この文章は、兼好法師並みに徒然と書いているので、結論などは無いのですが、誰かにこうした文章の一瞬が入り込んで、新しい文章の一部になればいいなあと感じています。
そうした、忘れた頃に返ってくる宝物や時間という物事を、後悔の無いほどに、嘘のないほどに、愛していきたいなと感じる春の日です。
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