「私がいるから経験がある」のではなく「経験があるから私がいると思うことができる」~経験論への誤解に対する若干のコメント
今回は、ネットで時折見受けられる経験論に関する誤解についてコメントしてみます。
西田は以下のように説明していますが・・・
・・・別に純粋経験説の”立脚地”に立たなくても、私たちが経験の外に出られないのは明白です。五感、情動的感覚、現れてくる言葉・・・そういった様々な経験しかありません。思考と一般的に呼ばれているプロセスにおいても、結局は言葉やイメージ、あるいはそれに伴う情動的感覚、そういった一連の経験であることに変わりはないのです。
以下、具体的に説明してみます。
1.私がいるから経験できるのではないか
この見解はあちこちで見受けられます。普通に考えてもっともな話ですが、では「私がいるから経験できる」という事実認識はいかに根拠づけられるのでしょうか?
さらに言えば「私」という存在はいかにして根拠づけられうるでしょうか?
「私」「他者」も、視覚経験、あるいは触覚、さらには痛みその他の感覚、それらを因果的に結び付けることで根拠づけられると思います。
鏡に映っている姿を「私」と思うとき、鏡はそこにあるものを映すという因果的知識(経験則)が前提となっています。手に持っている物体を鏡の前に持ってくるとそれが鏡に映ることが見て取れます。その他さまざまな具体的経験により鏡の性質を根拠づけることができます。
とにもかくにも、「私」(「他者」も)の存在は私たちの具体的経験、そしてそれらの因果的つなぎ合わせにより根拠づけることができます・・・というか結局経験により根拠づけるしか他に方法はありません。
そして、その「私」がいるから経験できるという認識も・・・寝ているときは経験できないとか(夢を見ているときは別でしょうが)、目をつぶると何も見えなくなるとか・・・そういった具体的・個別的経験の積み重ね、それらの因果的関連づけにより根拠づけられます。
つまり、経験論としては「私がいるから経験がある」のではなく、「経験する私という存在は経験から導かれる・根拠づけられる」と言うことができます。
「私がいるから経験がある」のではなく「経験があるから私がいると思うことができる」と言った方が事実をより正確に説明していると言えるでしょう。
2.経験論は経験の起源を示せない
経験の起源も、まずは経験があって、それを他の経験と関連づけることによって推測されるものです。そもそも一つの経験のみをいくら見つめてもその起源はわかりません。その他の様々な情報(もちろんそれらも具体的経験として現れるもの)と関連づけながら起源というものは確かめられていきます。
3.見えないものは存在しないのか
物の存在は究極的には知覚経験(視覚や触覚など)によって根拠づけられます。しかしすべての物を知覚経験として認識できるわけではありません。では知覚されていないものの存在を推測する理論・論理はいかにして導かれるのか・・・と考えれば、これもやはり経験の積み重ね、経験の因果的関連づけ(経験則)によるものであると言えるでしょう。
素朴実在論を信じる人はほぼいないと思いますし、素朴実在論を主張する人でさえ、トイレに行くときには(たとえそれが目の前にない場所であっても)用を足しにそのトイレへ(トイレの部屋の存在を疑いもせずに)向かうでしょう。自宅にあるトイレの部屋は、いつそこに行ってもそこにあります。私がトイレに行かないときも、家族のだれかがトイレに行っています。家族から「トイレの部屋が消えた」なんて言われることもありません。
日常生活におけるこうした経験の積み重ね、そこに行けばトイレの部屋があるという経験の因果的理解(経験則の積み重ね)により、目に見えないものの存在が根拠づけられていると言えます。
もちろんそれだけでなく、私たちの日常生活における様々な局面において様々な経験則が積み重ねられていくことで、私がいなくても地球が存在している、世界が存在しているという確信が根拠づけられると言えるでしょう。
4.経験は間違うことがある
ある経験により得られた知識が間違いだとわかるのは、新たな経験によるものです。そして新たな知識により取って代わられるだけです。
5.経験論哲学は客観性が担保できないのではないか
客観性・普遍性について議論する場合、既に「私」「他者」という存在が前提されています。客観性・普遍性とは特定の事象に関して「私」「他者」ともに同じように認識しているということです。
その前提で話を進めますが・・・他者も私と同じように認識しているという根拠も究極的には様々な経験から導かれるものです。他者の言動、様々なメディアの情報(文章や映像など)などです。それらも結局は私の経験でしかありません。普遍性も究極的には個人個人の経験としてしか確かめるしか術がないのです。
私には私の経験しかないのですから、それをもとに哲学を構築するしかありません。もちろん(哲学書・哲学論文の)著者のこれまでの経験から、その内容に関する経験については、私と他者とは同じようなものであるという確信をもって論文を書いていると思います。
しかし、その哲学に本当に客観性・普遍性があるかどうかは読者に判断してもらうしかありません。読者はそこに書かれている文章と自らの経験とをつなぎ合わせ理解し、同意できるのか判断するでしょう。
そして同意してもらえているかどうかの判断も、結局は著書の批評文、あるいは他者の言動などから判断するものであって、究極的には個人の経験として判断するしか他に方法がありません。
他者の批評文に対し、著者自身が同意できないのであれば、さらに丁寧に説明を重ね同意してもらえるよう努力していくしかありません(同意できるのであれば修正していくしかありません)。
(認識の)客観性・普遍性というものは私たちの日々の経験から離れて突然現れるのではなく、他者とのこういったコミュニケーションの積み重ねで生み出されていくものであると思います。
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