見出し画像

純粋経験に関する異なった見解について

今日は寝る前にちょこっとだけ・・・

純粋経験とは何か、巷には様々な見解があるように思えます。西田の『善の研究』の記述にも混乱が見られますし、どこの部分を取り出すかによって様々な主張ができてしまいます。

純粋経験とは - コトバンク (kotobank.jp)

おそらくは幼児がもつと思われる、自と他、物と心といった区別が生ずる以前の未分化で流動的な意識のこと

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ):著者(野家啓一)

・・・特にこのあたりがひっかかります。もちろん『善の研究』を読んでみればこのように考えることもできるでしょう。しかしこれでは思惟・意志・知的直観というものも純粋経験であるということと矛盾してしまいます。矛盾は矛盾、いくら屁理屈で整合性を満たそうとしても、論理そのものに根拠がありません。

笑い学入門2「笑いと『純粋経験』――笑いの最中について」|WARAI+ (waraiplus.com)

・・・このサイトでは経験に「普通の経験」と「純粋経験」とがあるかのような説明がなされています。『善の研究』における西田の混乱した説明を読めば、上記サイトのような解釈ができてしまうことは否定しませんが・・・そもそも経験に普通も純粋もありません。気が散っていようと、集中していようと、そこにあるのは純粋経験=直接経験のみであり、「私」「自我」というもの(純粋経験)などどこにもありません。「私」について考えているときでさえ、そこにあるのは「私」という”言葉”と「私」にまつわる様々な心像などであって、そこに「自我」「自己」というものなど現れてはいません。

※ ここが純粋経験論が独我論と違うところです。物を見る「私」というものなど具体的経験として現れてなどいません。あるのは具体的感覚や言葉、イメージなど、ただただ現れてくるものだけです。「私」の存在というものはそれらの情報を因果的に結び付けることで根拠づけられ理解されているものです。つまり、私があって経験があるのではなく、経験(純粋経験)がまずあり私はそこから(因果的に)導かれる、私→経験ではなく、経験→私なのです。

*****

大概の研究者たちは、西田の著作を整合的に読もうとしているように思えます。しかし、そもそも西田の論理が破綻しているのに無理に整合的に読もうとするから、おかしな屁理屈になってしまうのです。(本来ならば、哲学者たちは「整合性」とはどういうことなのか、さらには「矛盾」とは何か、まずそこから考えるべきなのに、そこをすっとばしているようにも思えます)

よくよく考えてみてください。純粋経験から出ることなどできないのです(一応、西田もそう書いています)。純粋経験=直接経験、私たちにはただただひたすら現れてくる具体的な直接経験しかないのです。判断材料はそれしかありません。

そこで『善の研究』の読み方を変えてみてください。『善の研究』から”学ぶ”のではなく、実際の具体的経験と『善の研究』における説明とが実際に合致しているのか、していないのか、検証しながら読み進めるのです。

純粋経験には高尚か否かなど関係ありません。教養があろうがなかろうが、芸術的素養があろうとなかろうと、直接経験は直接経験(純粋経験)なのです。(検証・批判のためにはある程度の読解力は必要でしょうが・・・)

西田は自らの嗜好や願望と哲学理論とを思いっきり混同させてしまっています。読者はおかしな理屈に絡めとられることなく、まっとうに、自らの純粋経験に基づいて『善の研究』を批判的に読むことをお勧めします。


<参考文献>

西田幾多郎著『善の研究』分析/(第一編第一章:PDF)(第一編第二章:PDF)(第一編第三章:PDF)(第一編第四章:PDF)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?