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分裂もないから融合もない、主客もないから主客合一もない

林信弘「西田幾多郎の純粋経験」『立命館人間科学研究』第5号(2003年):65~73ページ
http://www.ritsumeihuman.com/uploads/publication/ningen_05/065-74.pdf

はかなり昔に読んだ論文であるが、もう一度簡単に検証してみようと思う。
以下、引用部分は上記論文からのものである。

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1.「経験」は「意識」ではない

西田の「純粋経験」の「経験」は「意識」と読み換えることができる。

(林氏、66ページ)

・・・「意識」(「純粋意識」)とすると、それを意識する「主体」というものが前提されているようなイメージを抱かせる。それでは本末転倒である。

それゆえ思惟のうちにも純粋意識は働いている。つまり主客合一(主客統一)の力は働いている。

(林氏、67ページ)

・・・「純粋意識」というものの”力”、”働き”(あるいは”作用”)というものが前提されてしまっている。力・働き・作用というものが具体的な直接経験として現れていないことは(私たちの実際の経験を検証してみればわかるであろうが)明白である(このあたりはヒュームを参照)。力・働き・作用とは、具体的事象と事象との間に”想定”される仮設(仮説?)概念であって、具体的事象(純粋経験・直接経験)として現れているわけではない。
 ここでも経験→意識と言葉を変更したことによるニュアンスの変化が見て取れる。

2.思惟において純粋経験に分裂も融合もない

純粋意識から見れば,思惟は主客二元的に分裂していながら分裂していない。なぜなら,純粋意識から見れば,たとえば,この色は青だ,この音は鐘の音だという思惟的判断において,思惟する我と思惟される対象が一つに融合しているからである。しかしそれでもやはり,この種の思惟的判断においては,思惟する我と思惟される対象の分裂は厳然として存在しており,解消されていない。それゆえ思惟の課題は,純粋意識の合一力(統一力)に深く従いながら,この分裂を解消し,分裂なき純然たる主客合一の状態において思惟することにあるのである。

(林氏、67ページ)

・・・純粋経験(=直接経験)において、思惟・思考というものはいかに現れているのか? 結局のところ、何か見えて「この色は青だ」とか何か聞こえて「この音は鐘の音だ」と言語化したという一連の経験が”現れた”という事実があるのみ、そこに”分裂”やら”融合”というものなどどこにもない。あるとすれば、経験と言葉(言語化した事実も経験ではあるが)とが繋がりあった事実がそこにある、ただそれだけである。主客の合一ではなく、言葉と経験の繋がりなのである。
 そこに「我」と「対象」との分裂などどこにもない。分裂などないから統一も統一力もない。もともと主客もないから主客合一もないのである。

ある難解な数学的問題に取り組んでいるとしよう。その際我々は,こうすれば解けるのではないか,ああすれば解けるのではないかと,あれこれ試行錯誤するが,なかなか解けない。その数学的問題と我々とのあいだには大きな主客二元的分離が横たわっており,その分離に悩まされる。

(林氏、67~68ページ)

・・・これについても、数学的問題の文章を見て、数字や記号やらあるいは何らかの図形的イメージを想像したり描いたり、(問題が解けないときに感じる)何らかの情動的感覚を感じたり・・・そういった一連の具体的経験がただただ現れているだけである。そこに”分裂”などどこにもない。
 当然問題が解けた場合も、何らかの情動的感覚とともに、ただそこに答えとなる数字、数式やら何らかのイメージが現れてくる、さらにはスッキリした感じと言おうか、これも何らかの情動的感覚が現れたりもする。
 思惟・思考というものは、こういった一連の具体的経験の現れであるにすぎないのである。
 それらの情動感覚を「説明し得べからざる直覚」(林氏、68ページ:『善の研究』からの引用)と重ねて良いのかは分からないが・・・「独立自全の純活動」(林氏、68ページ)というのであれば、そうとも言えるであろう。純粋経験は(「私」「自己」というものもないままに)ただただ現れる具体的経験であるにすぎないのだから。

3.結局は自らの経験に落とし込めるかどうか

 また、西田の理論を解釈・批判する場合において、

西田の思想と一つになっていなければならない。つまり,こう言ってよければ,西田の純粋経験を純粋経験していなければならないのである。

(林氏、68ページ)

・・・と林氏は述べられている。これも結局は西田の文章を自らの経験に落とし込めるかどうか、ということである。西田を理解する、という時点で、そこに私、西田(さらには私や西田のいる世界)というものが前提されている思慮分別の世界である。(そのあたりのことは、西田自身が「思想」という「メガネ」をはずせないでいるのではないかの記事で既に説明した)
 もし西田自身が実のない言葉遊びをしている箇所があったとする。西田自身はそれが正しいと思っていたとしても、我々自身が自らの経験へ落とし込めなかったとすれば、それはやはりそういうことなのである。
 もちろん一度読んだだけでは分からず、何度も読んでいるうちに、あるいは時間をおいて読んでみれば、その文章を自分自身の経験に落とし込める場合もあるので、ある程度慎重に分析する必要はあるだろうが。

 そういう意味では、

思惟の根底には,ある種の直覚がなければならない。

(林氏、68ページ)

・・・という説明は、思惟・思考には何らかの具体的心像やら具体的事象といった具体的経験(くどくてすみません)が究極的には必要である、あるいは思想に関しては(標となる)情動的感覚などの具体的経験が必要である、と解釈することもできるかもしれない。

4.論点を混同することで、重要な事実が見逃されている

 さらに林氏は、夏目漱石の文章なども引用しながら説明を続けられるのであるが・・・結局のところ、以下のような状況:
 
・私たちが何らかの技術・技能に熟練して自由自在に、あるいはいちいち考えたりしないでも作業やら演奏やらが出来るようになること
・経験を積んでその幅が広がることで、人の言葉や文芸作品の内容がよりリアルに理解できるようになること
・何かに夢中になったり没入したりすること
・愛したり愛さなかったりすること

・・・を主客合一から論じようとすると、純粋経験とは何かという問題と論点がずれてしまうのである。(もちろん上記の事象が具体的な純粋経験としていかに現れているのかという説明はできるが、これも主客合一から説明しようとすると、実際の経験の事実から乖離してしまう)

 西田(もちろん林氏も)が、これら論点を混同することで、

私たちの具体的経験(直接経験)にそもそも「自我」「自己」(あるいは「私」)というものがないという事実

がぼやけてしまっているのだ。


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