「正しくなれない」って話。

「もう、正しくなんてなれない!!!!」って最近本当に思う。
パンデミックが始まってから1年半。感染症を由来とする諸問題が世間やタイムラインを賑わせるけれども、そこに関する息のしづらさ、そしてもたらされる生きづらさを一度言語化したかった。纏まらなくてもいいから、思うままに。

そもそもの話。世の中には色んな人がいて、色んな背景や文脈を持ち、色んな価値観、優先順位の付け方がある。政治的であるか、無いかにかかわらず、そうした違いをそれぞれに持ちながらこれまで生きてきたはず。
しかし、それが2020年を経たことによって、「感染症対策」がただ一つの行動基準の正義として位置付けられてしまった。しかも政治的な意味を十分に孕んで。

「位置付けられてしまった」とか書いたけれど、別に今の感染症対策第一優先の価値基準を否定したい訳じゃない。現実的に考えて、そうあるべきだとは思う。実際に医療が逼迫し、しっかりとした医療が必要な人に必要な医療が届かない現状を見る限り、社会全体がそうした価値判断基準を持って動くことは極めて理性的だと思う。

ただ、その絶対的な規範から発生する攻撃性に、自分自身やられちゃってる部分があるのも事実。今日書きたいのは、多分このことについて。

「緊急事態」と呼ばれる状態が長続きしている今、本来あるべき緊急事態では当たり前に受け入れられていた価値観でさえ、同意できない時がある。政治的に、理性的に正しい主張であっても、うるさいと感じてしまう時がある。
私の住む街では毎朝10時半に首長による感染防止のための行動をお願いする町内放送が流れるのだけど、それがとんでもなくウザい。たまに中指立てたりしてる。
政治的には、理性的には、その放送の言っている内容は正しい。だけれども、その正しさを受け入れるマインドは、もう自分の中にない。

なんなのだろう。別に陰謀論とかを信じる気はないし、それなりに善良な一市民として正しくありたいとも思っている。けれど、誰かに強いられる正しさは、どこかサイズが合わない。

そしてこれは主にTwitter上の話だけれども、さらに言えば直近行われたフェス等々にまつわる話だけれども。それぞれの正しさとか、それぞれの現実がぶつかり合っていることを日々感じる。そして思うのは、そこにある正しさや現実は本当に人それぞれに違うってこと。液晶を見るだけでは想像もできないくらいに。
そしてそこで燃え上がった正しさの炎は、必ずしも私たちを善い方向へは照らさないってこと。

Twitterの性質上、あらゆる問題提起がなされて数々の同意を獲得したとしても、せいぜい数十時間後にはタイムラインの墓地に沈んでいく。そして新たな主張、同意、ないしは標的を求めて上へ上へとスクロールし続ける。なんかそういうのにうんざりしてきている自分がいるのが分かる。もっとのびやかに、穏やかにいたい。たとえお気楽でいられない社会情勢であったとしても。

そう、MONO NO AWAREがフジロック出演にあたって出したステートメント文がある。この文章に関しては所々端折って引用するのは乱暴なので、少し長いけれど全部読んで。

あらゆる場所で起きる、あらゆる人の現実を、"私も" 引き受けることはできない。ではどうすればいいのかって話だけれど、それはまだ答えが出てない。多分この先も出ない。

なんか疲れること多いよね。大学生の夏だからもっとパーっといきたいのにね。

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