プログラム15 信仰上の理由で欠場しなさい。

いよいよ、このプログラムを公開する日が来た。権太坂コピーライター養成所の全19あるプログラムのうち、タイトルを見ただけでは一体なんのことなのか、見当もつかない最たるものが、今回だと思う。“信仰”という言葉を見ただけで嫌悪感を感じた受講者も多いかもしれない。が、怪しい宗教の勧誘をするわけではないので、まずは安心していただきたい。それでも生理的に無理だと感じる方は、今回は休んでいただいて構わない。これまでのように何かを実践するレッスンではない。今回は、あることをただ知っていただく、それだけを目的に導入した特殊なプログラムだ。正直、今回のプログラムを公開することに、ためらいがないわけではない。それが何の役に立つのですか? と問われたら、答に窮してしまう。その一方で、実は、このプログラムを紹介したいがために、権太坂コピーライター養成所を始めたと言っても、決して言い過ぎではないのも事実だ。こんな話をする講師はおそらく他にいないだろうから、私には紹介する使命があるとさえ思っている。海外は別として、日本ではほとんど周知されていない話だ。知らないからといって一流になれない訳ではない。しかし、この養成所の存在を知ってくれたのも何かの縁だ。そんな君にはぜひ耳を傾けてもらいたい。少なくとも私は、これから語る出来事に感銘を受けたし、このこと以上の衝撃には、大袈裟なようだが未だかつて出会っていない。さぁ、前置きは、これくらいにしようか。

ラグビーの世界で実際にあった話である。時代は1991年。イングランドを中心とした欧州で第2回ワールドカップが開かれた。ラグビーはイングランドで生まれたスポーツだが、当時もそして2020年現在も、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカといった南半球勢が強く、発祥国イングランド、ウエールズ、アイルランド、スコットランド、フランスなどのヨーロッパ勢がそれに続く構図になっている。事実、1987年の第1回W杯では、ニュージーランドが圧倒的強さで優勝し、第2回大会も、ニュージーランド、オーストラリア、イングランド、スコットランドがベスト4に残った。ニュージーランド・オールブラックスは優勝した第1回大会後も好調が続き、第2回大会も優勝候補の筆頭に当然のごとく挙げられ、ニュージーランド国民の多くは母国の連覇を信じて疑わなかった。

ニュージーランドが敗れた理由

しかし、結果は準決勝でオーストラリアに敗れ、3位に終わった。優勝候補が必ずしも優勝するとは限らない。スポーツの世界ではよくあることだ。なのでこの結果自体には特筆すべき点は何もない。注目すべきは、大会2連覇がかかった大事な準決勝に、ある選手が欠場したことにある。名前はマイケル・ジョーンズ氏。オープンサイドフランカーというラグビーでは重要なポジションの世界的名選手で、要するにオールブラックスの勝利に不可欠な存在だった。その活躍に、もちろん多くのファンは大きな期待を寄せた。マイケル氏がまたW杯を自国にもたらしてくれるだろうと信じた。しかし、マイケル氏は準決勝に出場しなかった。怪我や体調不良が理由ではなく、その日が日曜日だったからである。マイケルが欠場したからオールブラックスは負けたと言い切ることはできない。しかし、彼の不在が大きな穴になったことは疑う余地がない。試合結果にタラレバは禁物だが、あの試合にマイケルがいてくれたらと、悲痛にも似た思いを抱いた人は多かったろう。

優勝より安息日を選んだマイケル氏

マイケル・ジョーンズ氏は敬虔なキリスト教徒だったため、彼にとり日曜日は安息日にあたる。だからマイケル氏は試合を欠場した。この行為をその当時、アナウンサーの実況で知った時、私の現実は変わった。爽快な風が身体の内部を吹き抜けた。わかりやすく例えてみようか。オリンピックでメダル候補の日本選手がいたとする。メディアは彼や彼女の勝利の可能性を連日のように報道する。国民の期待感がいやでも高まる。その選手の地元の人を中心に、国民みんなが応援する。金メダルを取ってほしいと渇望する。予選はまずまずの順位で通過した。あとは決勝だ。勝ってくれ、ワタシたちのために、と祈る。日本のために金メダルを獲ってくれ、と願う。ところがその人は、決勝に出なかった。不慮の怪我や突然の体調不良なら、許されよう、いや同情されよう。それがもし、信仰上の理由から試合に出なかったとしたら、日本のメディア各社は言葉を無くすに違いないと私は想像するのだが、どうだろう。サッカーの日本代表が2022カタールW杯に出場する。国民は勝利を期待する。メディアは“絶対に負けられない戦い”と熱く報じる。このテキストを書いている現在、誰がサムライジャパンの主力になり勝利の鍵を握るかは分からないが、ともかくその中心選手が決勝リーグ進出をかけた重要な試合に、「その日は安息日なので試合に出ません」と言ったら、どうなるか。この選手はかなりのバッシングを受けるに違いない。1991年当時、マイケル・ジョーンズ氏がとった行為は、2020年の日本の状況に置き換えると、ざっくり以上のような話になる。

自分の信念を貫ける社会

ニュージーランドと日本という国の違い、民族性の違い、宗教観の違いなどがあり、同じ土俵で論じるのは難しいかもしれないが、日本の社会には、マイケル・ジョーンズ氏のような行為ができる空気が“まったくない”と断言せざるを得ない。もちろん、1991年のニュージーランドでもマイケル・ジョーンズ氏のとった行為は賛否両論があったろうし、どちらかといえば批判のほうが多かったに違いない。ラグビーを熱愛する国だ。つねに世界一であることを多くの国民が望んでいる国だから、一部のメディアにはきっと戦犯扱いされたことだろう。そのように批判されることは予期していたに違いない。それでもマイケル氏は信念を貫いた。それは、マイケル氏の信仰心の厚さによるものが大きかったことに加え、ニュージーランドという国の空気も影響したと睨んでいる。日本では、オリンピックやワールドカップなどのビッグイベントにおいて、国民の期待に応えるために、たとえ怪我をしていても口外せず試合に臨む選手も多いと聞く。それはそれで美しい行為かもしれない。自分のことより公のために生きるのは日本ならではの美徳であろう。その精神は批判すべきではないし、これからも脈々と後世に伝えるべきだ。しかしその一方で、個のために生きる土壌がもう少しあってもいいのではないだろうか。芸能人と同じく、日本代表になるくらいの選手は個人ではなく公人だという意見もあることは理解できるが、たとえ公人であったとしてもその人のプライバシーを尊重してあげられる配慮が蔓延する社会になったほうが生きやすくないか。

公のためではなく信じることのために

国のためにガンバル、会社のためにガンバル、それは素晴らしい。でもそれがすべてではない。自分の信じるもののために生きることは、もっと素晴らしい。

マイケル・ジョーンズ氏の例を引いたので、信じるものイコール信仰と捉えられてしまうかもしれないが、宗教上の信仰心だけではない。家族でもいい、芸術でもいい、学問でもいい、政治でもいい、友情でも、恋人でも、もっと大きく愛のためでも何でもいい。世間から自分にかけられた期待より、自分が信じるもののために生きられる日本が来ることを、私は待ち望んでいる。

いつか見て見たい。高校野球の決勝戦当日、それまで快投を続けチームの勝利を牽引してきたエースが、野球より大切な予備校の模擬試験を受けるため甲子園から帰京する光景を。2021年?東京オリンピックで、金メダルの期待がかかった日本選手が、その日は大切な人の命日で墓参りにいくため試合を棄権する光景を。日本代表のエースストライカーが、飛行機に乗りたくないからという理由で、ドーハで行われる大切な試合への出場を辞退する光景を。

君は一輪の花を守るために仕事を投げ出せるか?

君はいつか一流のコピーライターとして、広告業界で、いやこの社会で活躍する日が来ることだろう。そのとき君にはマイケル・ジョーンズ氏になってもらいたい。会社より、クライアントより、子供との約束を守る人になってほしい。社運をかけたプレゼンの日も、君の信じる愛のために出席を断れる人になってほしい。たとえ解雇されても、一輪の花を守るために仕事を投げ出せる人になってほしい。君が信じるものは、なんだろうか?

今日は、ここまで。


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