現代人のためのチベット死者の書~瞑想して本を読むことは大事だと思いました



死んだらどうなるか? という小学生から大人まで普遍的にもっている疑問に対して、現代、明確に答えているものの一つが、チベット仏教であり、この本です。まだまだ奥が深すぎて理解しきれていませんが、現段階で自分が分かっていることを、なるべく分かりやすくまとめたつもりです。

バルト・トドゥルとは何か

8世紀から9世紀にかけて、チベット仏教の偉大な師、パドマサンバヴァが著し、秘匿し、14世紀になって埋蔵教として発見された。「チベット死者の書」は西洋人がつけた通称。より正確に訳すると「自然に解脱する書」
死と転生の間であるバルドで起こる体験と、人間に生まれ変わるためのノウハウが記されている。
成立の過程としては、以下の3つが歴史上はじめて統合されたものとされている。

・寂聴尊と憤怒尊のマンダラの体系~煩悩や知的構成から離れた「純粋な知性」はそのままの形では、人間の心の働きの表面にあらわれてくることはないが、それはいつも心の働きのある場所で純粋自由な活動を続けている。それが放つ波動を分類したもの。

・ゾクチェンの思想~純粋な知識に入り込んでいくこと。瞑想法によりその存在を心の表面に浮かび上がらせる。

・死の体験をめぐる知識

リアリティとは

ダルマと同義であるが、人間の本質(真理)という文脈で用いる場合、われわれにとっては「魂」という表現が分かりやすい。

チベットでは、輪廻転生が常識として信じられており、ダライ・ラマの認定制度のように、文化と切っても切り離せないものになっている。生きとし生けるもの=有情は、死んでもその意識が失われることはない。より正確には、意識と呼ばれていたものはバルドを経て別のものになるとされている。それをリアリティ、魂と呼ぶ。

それはは変化しながら継続していく。他者とのかかわりの中にあるすべてはリアリティを備えている。影響を受けやすい脆いものではあるが、反応する力も備えており、進化する可能性を持ったものである。

死者の書は、再び人間に生まれることを目的としている。それは解脱に至るためである。
なぜなら、動物たちには魂があるし、苦しむし、覚醒を得る可能性を持っているが本能がもたらす無知に縛られているため、集中的に善い行いを積み重ねていくのに向いていないからだ。

仏の三身(法身-報身-応身)

覚醒を達成した状態になると、普通の心は限りなく広がって、あらゆるものと一体化してリアリティの身体と呼ばれる永遠の意識となる。すなわち解脱、涅槃であり、すべての自己中心的な関心を越えた状態にある。これを法身という。

言葉や身体は、生の連続性を失うことはない。身体は自己中心的な思いに駆られて他のものに触れようとする、言葉は心に抱いた内容を他社に伝えようとする、そして心と心が通じていく、言葉の連続体は限りない一体性を達成した心の至福として広がり、完全なる無限の喜びとなって報身となる。

普通の身体の連続体は、応身となる。ある仏が普通の有情に手を差し伸べようとしても、有情たちは自分たちに回りに報身として存在している仏との一体感を感じ取ることができない。有情たちは、苦しみと疎外感に苛まれ、個別の環境の中にとらわれてしまっているからだ。そんなときに報身を支えるエネルギーから無数の個別の存在が立ち現れる。

チベット式の身体と心のモデル

チベット仏教では、上記を踏まえ、身体と心の複合体を、以下のように3つのレベルで捉える。

粗雑なレベル~身体=元素からなる物理的~心=感覚と意識
微細なレベル~身体=脈管・風・心滴からなるエネルギー(現代の科学では中枢神経系と呼ばれているもの)~心=80の本能(欲望や攻撃的な心、混乱など)に駆られた3つの輝く直感(輝き、放射、切迫した状態)
超微細なレベル~身体=これ以上分けることが出来ない純粋な光のエネルギー~心=純粋な光のエネルギーの心(身体と心は分けることができない)ヒンドゥー教のアートマンに相当する。

これ以上分けることのできない透明な意識こそが、仏教のいう「魂」であり、生命と意識が宿る一番深い場所。転生して形が変わっても「魂」の連続性は破壊されることがない。これを理解し体験することが、仏性を獲得するということであり、死者の書のゴールである。

六道とバルド

バルド(中有)とは、死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの意識の中間状態を指す。

一つの魂の生のプロセスは、死やバルド、生といった局面を通して果てしなく続いていく。これらの局面は、深い眠り、夢を見ている状態、目覚めの状態に当てはめることができる。目覚めの状態は3つのサイクルに分割できる。深いトランスの状態、微細な心ー身体の状態、粗雑な身体へ戻っていく状態であり、タントラ・ヨガの修行では、通常の死や睡眠状態・トランス状態・瞑想の目覚めを法身に、通常のバルド、夢、幻の身体の目覚めを報身に、通常の生、目覚めの状態、統合した粗雑な身体を応身に変容させることを目的としている。

六道とは、通常の仏教の宇宙を分類したもの。六道輪廻と、体験されるバルドの対応は以下とされる。この枠組みは、個々の人生の連続体にいてはすべての実存の瞬間が本質的に無常であることを強調するために取り上げられている。

生のバルド~誕生と死
夢~睡眠と目覚め
瞑想~二元論的な意識と覚醒した認識
死の瞬間(チカエ・バルド)~生とリアリティ
リアリティ(チョエニ・バルド)~死の瞬間と再生
再生~リアリティと誕生

以上が前提となる知識で、以下から実際の死ぬ技術となる。

生前の準備

よりよい死を迎えるための準備には以下の5種類があるとされる。これらは、ごく日常的な世俗の生活の範疇で行うことである。
特筆すべき点として、特定の宗教を信じなければならないわけではないこと、死や哲学や宗教とは関係のない知的な活動もその一つであることが挙げられる。

知識を持つ(死ぬと起こることについてはっきりしたイメージを持つ)
想像力を働かせる(死ぬことをポジティブにとらえる。どんな宗教でもよいから、死後の世界について理解を深める)
倫理的な準備(死がそこにあると考えて生き方の癖をなおしていく。死ねば自分の体も、所有物も、人間関係も失う。慈悲、寛容、他者への感受性)
瞑想
1.心を穏やかにする
2.洞察を深める<ヴィパッサナー瞑想>
3.心を治療し、良い方向に向ける瞑想
 愛や忍耐について瞑想し愛情あふれた態度を強化→忍耐の瞑想→執着の瞑想。所有や現生での活動に対する執着から自由になっていく)
4.よい場所や出来事を観想する瞑想(死の瞬間や、どんな時でも平常心を保てるようにする)
5.日常の中で行う瞑想
知的な準備(知性は解脱を達成するための乗り物となるものであり、智慧の源泉である。沢山の文章を通じて、命、自己、環境といったものの本性について学ぶこと。宗教に興味がなければ科学に関してでもいい)

生前の準備(特別な準備)

自分の人生を根本から変えたい、よい進化のために人生のすべてを捧げたいという者は、出家して人生のすべてを覚醒の追及に捧げることになる。

その一つ目は、主観的な無我を瞑想することで、自我の中にしっかりとした核となるアイデンティティなど見つからなことに気づき、アイデンティティというのは一つのつくりごとに過ぎず、他社との関係性の中でつくられたものに過ぎないと悟り、客観的な無我を理解すること。

二つ目は、師について灌頂を受け、「結果を手段として用いる」ことで覚醒を身体・言葉・心と直感で感じ取る。そして覚醒を、いずれ到達できるものと思うようになる。

三つ目は、創造の階梯である。想像力を利用して、普通の知覚や概念作用を覚醒のビジョンと経験に援用させる。純粋な智慧のエネルギーを仏というビジョンで捉えることによって、完成された宇宙を想像力で創り出す。

四つ目は、完成の階梯と呼ばれており、さらに身体の分離、金剛の暗誦、心の分離、純粋な光、統合という5つの段階に分かれる。
この過程では、肉体の死をリハーサルしたり、粗雑な意識を80の自然な本能でできた微細な意識に溶け込ませる。本能は溶解する際に大きなうねりを作り出す。本当に死んでしまうこともある。そのような事態を避けるためにチャクラを開く。オーガズムのエクスタシーを得ることもある。要するに厳しい宗教的な修行である。

実際に起こること

死の瞬間のバルド(チカエ・バルド)は、生とリアリティの中間である。

呼吸が停止して意識を喪失しても、体内に呼吸(脈管・風・心滴等と言われる微細な身体のエネルギー)は残っている。この時間は生前の行いで長くなったり短くなったりするが、死者の書では3日半の間続くとされている。

呼吸が止まると、一つ目の「純粋な光」が現れる。意識は8つの死の身体感覚を感じる。土が水に溶け入る蜃気楼のような徴、水が火に溶け入る煙のような徴、火が風に溶け入る蛍の灯りのような徴、風が意識に溶け入るろうそくの炎のような徴。
そして、月明かりに照らされた夜空のような、意識が柔らかな光に溶け入る徴。太陽の光に明るく照らされた空のような、やわらかな光がまぶしく放射する光に溶け入る徴。暗い空のように見える、まぶしく放射する光が切迫した状態に溶け入る徴。夜明けの空のように見える、切迫した状態が純粋な光に溶け入る徴。

このような徴がすべて達成されようとする瞬間に、死者は覚醒した冷静を得たいと発心しなければならない。

この段階で解脱ができなければ、二つ目の「純粋な光」が現れる。この段階では、死者は周りが見える。葬式の様子が見える。この段階では、自分の信仰対象となる神のことを観想すれば、解脱できる。

この段階で解脱できなければ、リアリティのバルド(チョエニ・バルド)が訪れ、十四日程度続く。本能が寂聴尊、憤怒尊となって次々と現れ、最後に閻魔大王が現れる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?