生きることも死ぬことも全部祭り。
女性S様に誘われて京都の街を歩いていた時、八坂神社の前を通った。S様が「ちょっといいですか」と言って、鳥居の前でお祈りをした。私はそれを黙って見ていた。数十秒後、祈りを終えたS様は「スサノオノミコトから力を貰いました」と言った。そして、意を決した表情で「坂爪さん、私を抱きませんか」と言った。私は、その、あまりにも露骨な展開に大笑いしてしまった。スサノオノミコトは破茶滅茶な神様で、皆様ご存知の通り、数々の武勇伝がある。S様は「実はホテルも調べてあります」と言った。時刻は午後一時。まごうことなき昼間だったが、S様の潔さを見た私は気分を良くした。
時折、死にたいと話す人に出会う。その度に、この出来事を思い出す。死にたいと嘆く人は、誰も自分の話を理解してくれない的な悩みを抱えていることが多い。私にもそんな時期があったから、気持ちはわかる。気持ちはわかるのだが、自意識に捕まるとロクなことにならない。嫌な言い方だが、誰にも理解してもらえないと嘆くお前は、誰かを理解しようとしたことがあるのかと思う。人間は、油断をすると「面白い話をしなくちゃ」とか「しっかり説明しなくちゃ」などと身構えて、自意識に捕まる。だが、一番重要なのは話す力ではなく聞く力であり、現代社会は聞き手が圧倒的に不足している。これは大チャンスであり、みんな、勝手に好きなことを喋り勝手に自爆をしてくれるのだから、我々は黙って聞いていればいい。仕事も色恋も同じだ。余計なことをやるから拗らせるのだ。
日本人には自分がないと言われるが、逆だと思う。自分があり過ぎる。明日壊される壁だから何でも好きな絵を描いていいよと言われたら、誰でも自由に描きまくる。失敗も気にしない。うまくやろうと思わない。だが、いつまでも残る壁に描けと言われると、自意識が邪魔をして考え過ぎて動けなくなる。こう思われたらどうしようとか、見栄が邪魔をする。満員御礼の箱なら大声を出して騒ぎまくれるが、客がまばらな箱だと人目が気になって腕を組んだり足を組んだりする。何も描けなくなり、何も踊れなくなる。明日壊れる壁なら描けるが、いつまでも残る壁には描けない。これではちょっとダサ過ぎる。いつか壊れる壁なんだよ、俺もお前も。好きに描けよ、その壁に。好きに描けよ、その体に。自分が壊れてしまうくらい、明日にも壊れてしまうくらい。好きに踊れよ、その箱で。好きに踊れよ、その心で。いつか壊れる体なんだよ、俺もお前も。好きに踊れよ、この星で。
スサノオノミコトは日本最古の和歌の作者だ。『八雲立つ/出雲八重垣/妻ごみに/八重垣つくる/その八重垣を』。雲が幾重にも湧く出雲の地で、妻との新居によい場所を見つけた。妻のために垣根を幾重にも造ろう。要約するとそんな意味だが、超訳すると「やったるで」になる。私は、この、スサノオノミコトの「やったるで」感が好きだ。テンションが高まり、愛する妻のために「やったるで」となっている。着の身着のまま気合い十分。天下無敵の無一文。俺はやる。俺はやるぜ。そんな気合いに満ちた歌が最古の和歌であることを誇りに思う。S様と同じだ。ここにはもう、自己憐憫も自己肯定感の低さも世間体も自信の無さもない。ただ、潔さだけがある。自分の思いに殉死する火の玉超特急になる。それが良い。その潔さが良い。抱き合い心中に挑む心意気が、胸を打つのだ。
死にたい人には「死ぬ前に、俺をアフリカ大陸か南米に連れて行ってください」と言いたい。一日一カ国行こう。意外と行ける。意外とやれる。帰国しても死にたかったら死のう。世界各地の死生観に触れたら、死にたくなくなってるかもしれない。逆に元気になっているかもしれない。地球の裏側に行こう。治安は最悪だけど人間が元気な場所に行こう。治安は最高だけど人間が死んでいる日本を脱獄しよう。カラフルな呪物に心をときめかせよう。世界共通で神様は破茶滅茶だから、俺たち人間も破茶滅茶でいいんだよなと開き直ろう。生きることも死ぬことも全部祭り。暗く生きるより明るく死のう。人生はなあ、恥ずかしいセリフを恥ずかしげもなく言ったもの勝ちなんだよ。生きられるだけ生きて「ああ愉しかった」と野垂れ死ぬのだ。大丈夫、俺たちにはスサノオノミコトがいる。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!