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赤いセーター。

障害者施設で働く女性とお会いした。彼女にも重い精神病を患った経験がある。だから、完全なる他人事とは言えない。生きづらさとか社会的弱者というワードだけ見ると「大変そうだな」という印象を持たれることが多いが、彼女は「あの空間は、私にはすごい優しいんです」と言った。サービスを提供する施設は、同じ場所で同じ内容のことをやっていたとしても、代表者が変わるだけで雰囲気がガラッと変わる。前の代表者は弱い人を真ん中に置いていたから全体的に優しかったが、新しい代表者は発言力のある人を真ん中に置いたため、みんなが顔色を伺うようになってしまったと彼女は言った。

彼女が、一つのエピソードを話してくれた。坂爪さんに聞いて欲しい話があるんです。服屋さんがバーゲンをやっていて、私は買い物に行ったんです。すると、とても可愛い赤いセーターがありました。私は「素敵だな」と思って、鏡の前で服を合わせてみました。色も綺麗で、可愛くて、欲しいなと思ったのだけれど、その後に「でも、私がこんな色の服を着たら周りにどう思われるんだろう」と思ったら、恥ずかしさが出てしまって買うことができませんでした。次の日、その服のことを忘れることができなくて、もう一回お店に行きました。すると、赤いセーターは売り切れてしまっていたのです。

店員さんに聞くと「一点ものだから、もうないのです」と申し訳なさそうに言われました。私はとてもがっかりして、ああ、どうして『好き』だけで選べなかったのだろうかと後悔をしました。数日後、お店の近くを通る機会がありました。ふらっとお店に立ち寄ってみたら、なんと、赤いセーターが再び入荷をしていたのです。私は、鏡の前で服を合わせてみて、ああ、やっぱり可愛いな、やっぱり欲しいなと思いました。でも、それなのに、私はやっぱり恥ずかしいと思ってしまって、その服を棚に戻しました。すると、新しいお客さんが入ってきました。そして、赤いセーターを手に取ったのです。

私は「あ」と思いながら、そのお客さんを遠くから見ていました。赤いセーターを戻してくれないかな。戻してくれたら次は絶対に買うと思いながら、お客さんをこっそり眺めていました。だけど、結局、そのお客さんは赤いセーターを買ってしまいました。私は、次こそは『好き』だけで選ぼうと思っていたにも関わらず、また『恥ずかしい』という思いに負けてしまって、欲しいものを手にすることができませんでした。振り返って見ると、私の人生にはこういうことがたくさんあるなあと思いました。好きという気持ちだけで物事を選べずに、恥ずかしいという思いに負けてしまうことがあります。

そして、彼女は笑った。だから、坂爪さんが私が住む場所に来るってことを知った時は「これだけは逃しちゃいけない」と思って、勇気を出して連絡をして会いたいと伝えました。だから、今、こうして会えていることがすごい嬉しいです。そう言って笑う彼女を見て、私の心はグッと来てしまった。彼女は言った。私は、昔から周りに合わせて生きてきてしまったところがあって、言いたいことを言うよりも「こういうことを言っておけばいい」と思ったことを言ってしまったり、笑いたくないのに笑うことがありました。だけど、これからは『好き』で選ぶことができるようになったらなと思います。

他にも、彼女はこんなエピソードを話してくれた。障害者施設で働いている時、みんなと雑談をする時間があった。その時、彼女は自分の身の上を話した。すると、それを聞いてくれた障害者の人たちが、涙を流しながら彼女の話を聞いてくれたのだ。これまでの人生で、自分の話を泣きながら聞いてくれる人に、彼女は出会ったことがなかった。自分の身の上を話しても「みんな大変なことを抱えながら生きているんだからさ」と言われてしまったり、「いい年なんだからそんなこと言わないで」と諫められることが多かった。だから、泣きながら話を聞いてくれる人の存在に、衝撃的な感動を覚えた。

泣きながら話を聞いてもらえるということが、こんなにも力を与えてくれるのか。彼女はそう思った。自分も、人の話を聞きながら涙が流れそうになることがある。でも、自分の場合は「こんな場所で涙を流したら恥ずかしい」と思ってしまって、涙を流す方向にではなく、涙を流さない方向に舵を取ってしまう。一緒に泣いてもらえることがあんなに嬉しいことだと知っているのに、私には自分を守る狡さがある。私にはいい格好をしようとする狡さがある。本当に恥ずかしいこととはなんだろう、恥ずかしいと思うことの方が恥ずかしいことなんじゃないだろうかと思うことがあると、彼女は言った。

彼女には、精神疾患を抱えた友達がいる。精神的なハンデはあるものの、彼女は友達の行動力や決断力を尊敬していた。友達は最近勉強をはじめた。しかし、そのプレッシャーによりある日薬を大量に服用してしまった。飲み過ぎた後、彼女は家の外に出てしまってコンビニで倒れた。救急車で運ばれ、朝、意識を取り戻すと自分が家の鍵も財布も持っていないことに気づいた。毎朝、彼女と友達は数分間電話をする習慣があった。彼女が電話に出ると、その友達が「家の鍵も財布も置いたまま外で倒れちゃったから、もしも私の家の近くを通ることがあったら鍵と財布を持ってきてください」と言った。

彼女は、朝、仕事に行く前にとても緊張をする。だから、心を落ち着かせるために、仕事前は予定を入れないようにしている。しかし、友達からそのようなお願いを受けたために「わかった」と返事をして、友達の家に行った。すると、家の鍵はあいていた。通常、友達の家には掃除などを手伝ってくれる人が週に何回か訪れる。しかし、年末年始の時期もあいまってヘルパーさんがしばらくこない日々が続いていた。だから、家の中はゴミや服などで雑然としていた。それらをかきわけながら家の中に入り、ああ、この中から鍵と財布を探さなければいけないのかと、一瞬、彼女は呆然としてしまった。

しかし、どうにかこうにか探し当てて「どこの病院にいるの」と確認して、無事に友達に届けることができた。そして、その時になってはじめて「あ、これから仕事だったんだ」と思い出して、彼女ははじめて緊張した。普段だったら、朝起きて仕事に行くまでの時間ずっと緊張してしまう。しかし、家の鍵と財布を探して送り届けている時間は、緊張を感じることはなかった。その時の体験を振り返って、彼女は「自分の中にも、まだこんな力があったのかと思えたら、すごい嬉しかったんです」と話してくれた。誰かのためという訳ではないけれど、こんなにも動ける自分を知れて嬉しかったのだと。

私は、彼女のエピソードの全部に「いい話だ」と思った。他人事じゃない。これは、俺の話でもあり、みんなの話でもあると思った。元気な人から見たら、欲しい服があれば買えばいいじゃんとか、誰もあなたのことなんて気にしていないよとか、そういうことを言うのだと思う。だが、私には「ああ、わかるなあ」と思う部分がたくさんあった。周りの視線を気にしてしまうことや、自分がそれをされて嬉しかったにも関わらず『恥ずかしさ』に負けてしまうこと、恥ずかしいと思うことの方がよっぽど恥ずかしいことだと思ったことや、ある日突然、自分の中にこんな力があったのかと発見する喜び。

私たちは一時間程度話して別れた。とてもいい時間だった。握手をして別れ、次の目的地に向かって歩き出した。数時間後、彼女からLINEが届いた。そこにはこのようなことが書かれてあった。リアルに会ってくださってありがとうございます。圭吾さんとお会いした帰り道に再びお店を通ったら、売り切れだと言われた赤いセーターがありました。今度は迷わず買いました。圭吾さんは何か不思議な力があります。これも圭吾さんからの贈り物です。ありがとうございます。と。私は、一つの物語を読んだ後のような温かさを覚えた。私に力があるのではなくて、私たちの中に力があるのだと思った。

2020年に手から手へ
本を受けとらせてもらった
出会いから毎年1回💡

本当にリアルに
会ってくださって
ありがとうございます!

圭吾さんとお会いした帰り道に
再びお店を通ったら
売り切れだと言われた
赤いセーターがありました!
今度は、
迷わず買いました!!

圭吾さんは何か不思議な力が
あります!

これも圭吾さんからの贈り物 です!!

ありがとうございました🙏

おおまかな予定

1月23日(月)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

1月29日(日)10時 日曜礼拝「親と子」@静岡県熱海市
https://note.com/keigosakatsume/n/n1dc02b82b52d

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!