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与えられたものを愛する力。

山形県の山奥で生まれた母親の実家は貧しく、中学卒業と同時に新潟市内にある床屋に住み込みで弟子入りをした。学校町と呼ばれるその地域にはたくさんの高校があり、制服を着た女子高生たちが毎日楽しそうに歩いている。自分と同じ年齢の女の子たちが楽しそうに生きている中、自分は掃除をしたり子守りをしなければならない。風呂も、安い給料では毎日入れない。母親は本を読まない。ただ、実家には一冊だけ本があった。野坂昭如の戦争童話集という本だった。悲しい話ばかりだから、母親は読めないと言った。読んでしまうと泣いてしまうその本を、母親は捨てることなく家に置いていた。

悲惨な話はもっともらしい説明を拒絶する。生々しくて凄まじくて言葉を失う。自分の安っぽさや薄っぺらさが浮き彫りになり、呆然とする。もっともらしい説明を拒絶する物語に、母は救われていたのではないか。自分の人生を肯定してもらえるような慰めを、母はその本から得ていたのではないか。毎日の生活は大変だが、それ以上に大変な人々がいる。自分と比べることもおこがましいが、仲間を得たような喜びと、自分の苦しみを肯定してもらえたような励ましを得ていたのではないか。読むためではなく、忘れないために母は本を持っているように思えた。本を読む代わりに、本と共に生きた。

67歳になった母の趣味はパチンコと麻雀とボーリングで、休みの日はせっせと外に出かけていく。母は、自分を「不埒な女」と言う。東北の女性は、自分のことを俺と言う。俺はパチンコに行くぞ。俺は麻雀に行くぞ。俺はボーリングに行くぞ。そう言って出かける準備をする母親は楽しそうだ。本を読まない人間や、パチンコなどの娯楽に浸る人間は、ダメな人間だと言われる。だが、母親を見ていると、そういう考え方がいかに浅薄なものなのかを思い知る。パチンコ屋に行けば、知り合いがいる。会話が生まれて、友好の輪が広がり、場合によっては一緒に食事に行ったり、旅行に行ったりする。

本を読まない母は、趣味がパチンコと麻雀とボーリングの母は、自分には学がないと言う。自分には学がないから、人様の前に出るのは恥ずかしいと言う。そんな母を見ると、私は考えさせられる。学があるとはなんだろうか。学がないとはなんだろうか。母親は毎日決まった時間に目覚め、料理と洗濯を済ませて、毎日必ずトイレ掃除をする。毎日トイレ掃除をする姿を見ていると、母親に学がないと言うのであれば、学なんて要らないと思う。母は、好きなものを見つけて、友達を作り、毎日を楽しそうに過ごしている。これ以上の学があるだろうか。人生に、これよりも大事なことがあるだろうか。

誰を母親にして生まれるか、誰を父親にして生まれるか、私たちは選ぶことができない。私にも、母親や父親を憎んだ時期がある。もっとこうであればよかったのにと不平を漏らしたことも一度や二度ではない。自分の家族も、自分の性別も、自分の容姿も、自分の車のナンバープレートも、自分で決めることはできない。それらは、ランダムに与えられるものだ。若い時は色々なものが気に入らなかった。だからこそ、足掻き、反発し、悶え苦しんだ。時代は変わり、気に入らないものは家族でも仕事でも車のナンバープレートでも、簡単に変えることができるようになった。しかし、母親を見ていると「ランダムに与えられたものを愛する力」のようなものの尊さを感じる。自分の代わりはどこにもいない。与えられた命を、人生を、愛したいと思う。

おおまかな予定

5月9日(火)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

5月24日(水)ナンディ国際空港@フィジー
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!