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ホームをレスした話(17)

人生とは、ボーナスタイムである。

これは私の座右の銘である。この時点で年齢は30歳。諸々の体験を重ねて「すでに一生分は生きたな」という気持ちになった。やれ、影響力を持ちたいだの、やれ、有名になりたいだの、やれ、何者かになりたいだの、私にも鼻息を荒くしていた時期があった。が、なんだか色々どうでもよくなってきた。定年は30歳。それ以降は余生だ。そんな風に思うようになっていた。

すでに一生分は生きたなと思うことができたのに、まだ、これから先も生き続けることができることを「めっちゃありがたい!」と思った。あとはもう、おまけみたいなものだ。足るを知るとはこの心境か。結婚をできた訳でもない。金持ちになれた訳でも、世界中の景色を見た訳でもない。しかし、私の中に「すでに充分に生きました」という達成感(?)が芽生えていた。

家のない生活は、行雲流水の日々だった。放浪の歳月を過ごしていると、自分の中に良寛さんと一休さんがいることを感じる。私は良寛さんが好きだ。一休さんも好きだ。私にとって、良寛さんは、穏やかでたおやかな「静的存在」である。一休さんは、破戒的でたくましい「動的存在」である。

良寛さんの好きな短歌がある。

形見とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

訳・今生の別れに臨んで
親しいあなたに形見を残したいが
何を残したらよいでしょうか
残すとすれば 春は花
夏は山のほととぎすであり
秋はもみじ葉の 美しい自然そのものこそ
私の命として残したいものです

「100分 de 名著『良寛 詩歌集』」より

家なし生活を送るなかで、もたない者の身軽さと、もたない者の心許なさを感じていた。そんな時、良寛さんのこの句を思い出すことで、落ち着きを取り戻していた。自分も似たような心境にあった。金や家や車などの財産を残すことは、自分にはできない。しかし、自分が生きることのなかで出逢った「美しいと感じたものたち」を、言葉にすることならばできる。誰かに伝えることならばできる。自分が生きることのなかで「美しい」と感じたものたち、それこそが、後世に遺すことのできる贈り物になるのだと感じていた。

盗人に 取り残されし 窓の月

良寛さんが睡眠中、家に泥棒が家にはいってきた。貧しい生活を送る良寛さんの家【五合庵】には、盗めるようなものはなにもない。そこで、良寛さんはわざと寝返りを打って「この布団をもっていけ」と促した。泥棒は、良寛さんの煎餅布団を奪い取り、そそくさと逃げ出した。そのあとに、良寛さんがこの句を読んだ。盗人も、月の素晴らしさだけは奪い去ることができなかったのだなあ、と。すごい。すごいぞ良寛。多分、これを風流と呼ぶのだろう。

良寛さんと私では雲泥の差だが、私も、托鉢僧のような日々を過ごしていた。だから、良寛さんの句には共感するところが豊満にあった。私が、ブログなどで「今日は誰々にご馳走をしてもらった」とか「今日は誰々から○○をいただいた」的なことを書くと、必ず、周囲の人々から「あなたはお金持ちに恵まれていいわね」的なことを言われた。しかし、そんなことはない。お金があるから優しくしてくれたのではない。声を大にして私は言いたい。

私に施しを与えてくれた人々は、決して、金銭的に余裕があるひとたちではなかった。むしろ、金銭的に余裕のないひとたちの方が多かった。母子家庭、生活保護、無職、引きこもり、療養中、非正規雇用の方々、などなど。自分の生活を守るだけでも精一杯であるはずのひとたちほど、私に、あまりある施しを与えてくれた。そのことに、私は、言葉にならない感動を覚えた。

そのような形で施しをいただくと、そのような形でいただいた施しによって生きていると、とてもじゃないけれど「ラッキー!」なんて気持ちにはなれなくなる。ああ、自分は生かされているのだと思う。これはもう、しっかりと生きるしかないじゃないか、自分がしっかりと生きることで、とてもじゃないけれど返しきることのできない恩恵の数々を、お返しするというよりも「次につなげていく」しかないじゃないかと、そういう気持ちに包まれていた。

『人はやさしい』ということ。

家なし生活最大の恩恵は、このことを、言葉ではなく肌身を通じて実感できたことにある。私の命は、私のものであって、同時に『私だけのものではない』のだ。みなさまによって生かされてあるこの命を、無碍に扱ってはいけないのだなと思った。それは自分自身に対する冒涜だけではなく、私に施しを与えてくれたひとに対しても、生命全体に対しても無礼な行為になる。だからこそ、自分を大事にしよう、自分を大事にすることが、生命全体を大事にすることにつながっていく、そういう生き方をしよう。と、そう思った。

そして一休宗純。一休さんの大好きな短歌がある。

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み(ひとやすみ) 雨ふらば降れ 風ふかば吹け

名前【一休】の由来にもなったと言われるこの短歌。有漏路とは、迷いのある煩悩の世界を意味する。それに対して、無漏路とは迷いのない悟り(仏)の世界を意味する。私なりに解釈をすると、私たちが生きている世の中は仮の宿であり、有漏路から無漏路に到る間、一休みをしている存在にすぎない。一切は空である。だから、雨が降るならば降ればいい。風が吹くならば吹けばいい。私は雨を生きる。私は嵐を生きる。私はそれを受けて立つ。

一休さんとなると、どうしてもアニメの一休さん(とんちキャラ)のイメージが先に立つ。しかし、実際の一休さんは「肉を食し、女を抱き、酒を飲む」人生を生きた、風狂の破戒僧だった。生きているといろいろある。それは、私に限らず誰もが同じだと思う。苦境に置かれたとき、私は、この短歌を思い出すことで丹田に力を込めていた。地に足をつけるように。それでいて、命に対する執着を薄めるように。無漏路に思いをいたらせるように。

けんかをしないでくらそじゃないか。末はたがいにこの姿。

この言葉は、あるひとから「家宝にしたいからなにかを書いて欲しい」と頼まれた一休さんが、最初に骸骨の絵を描いたあとに、添えた言葉になる。私は新潟出身で、冬場、あまりにも長い曇天に囲まれるために気分も滅入り、鬱々、なにかあるとすぐに「自殺」という選択肢が浮かび上がる人間になった。自殺をするために具体的な行動をする訳ではないのだけれど、とかく、なにかあるとすぐに「死ぬ」という極端な考えが湧いてくる。一休さんのこの言葉には、どこか、我々と似た匂いを感じる。矛盾をするようだけれど、死ぬための死ではなく、よりよく生きるために『死』を用いる。そのような感覚がある。

わが身ひとつに、良寛さんと一休さんを同時に抱え、行雲流水の日々を過ごしていた。ある日、ショートメールに一件のメールが届いた。普段、私は、携ショートメールをチェックすることは滅多になかった。そのため、当時、未読のショートメールが1400件以上たまっていた。私は「どうせなにかのいたずらメールだろう」程度に思っていた。だからこそ、まったくと言っていいほど、ショートメールの確認をすることのない日々を過ごしていた。

しかし、この時は違った。ふと「あ、メールだ」と思って、何年間も開いていなかったメールボックスをなんとなく開いた。ら、そこには驚愕のメッセージが書かれていた。これまでまったく開くことのなかったメールボックスに、まさか、これほどまでの光が差し込んでいたとは。差出人は静岡県熱海市在住の女性だった。そこには、短く、以下のような言葉が書かれていた。

ブログを読み、感動をしました。さすがに、家のない生活は大変でしょう。熱海でもよろしければ、家をご用意できます。ご連絡ください。

このメールを読んだとき、私は、広島県にいた。そのため、まず、一回熱海にお邪魔をさせてくださいとお返事をした。この頃には、家のない生活も二年の月日が流れようとしていた。おかげさまで全国47都道府県すべてをめぐることができ、海外にも20カ国近くに呼ばれて足を運ぶことができた。

家なし生活が与えてくれた恩恵は計り知れなかったが、やはり、家がないことで蓄積される疲労も相当なものになっていた。当時も、別に「家がほしい」という形での願望はまったくもっていなかったけれど、まず、メールをくれた方にお会いしてみたい。お会いして、どのような人柄なのかを肌身で感じてみたい。そう思って、まずは熱海に行かせてくださいと連絡をした。

返信はすぐに届いた。結果、私たちはメールのやり取りをした3日後に、熱海駅前で合流をすることになった。熱海。名前はよく聞くけれど、まだ、一度も足を運んだことのない未開の地だ。どのような場所なのだろうか。温泉地。その程度の認識しかなかった。あとはもう、実際に行ってみなければわからない。そう思い、なによりもまず実際に足を運んでみることとなった。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!