ホームをレスした話(3)
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ホームをレスした話(3)

毎日死んで、毎日生まれ変わる。

家のない生活は「執着のない生活」だった。正確には「執着のもちようがない生活」だった。家がないから保管場所がない。だから「いま、必要なもの」以外を持ち運べない。これが良かった。必需品の厳選が行われ、結果的に「スマホと着替えと充電器程度」があればあとはどうにでもなることがわかった。必要なものは街に転がっている。だから、自分が持ち運ぶ必要はない。この点、男は有利だと思う。女性はこうはいかないんじゃないのかなと思う(そもそもで「家のない生活」なんてやらない方がいいと思う)。

自分の中で決めた「誰の家にも連泊をしない」というルールも良かった。一週間とか一ヶ月とか滞在をしたら、受け入れ側の負担にもなろう。が、一日限定ならば「非日常的なアトラクション感覚として、ホームレスを家に泊めるという体験を面白がってもらえるかもしれない」という狙いがあった。これは、私の弱さと狡さの現れでもあった。が、これが功を奏したのか、不思議なことに「(物を)もたないと(異性・同性から)モテる」という21世紀的な逆説が起きた。

生活の中から「帰る」という動詞が消えた。これも不思議な現象だった。当たり前だけど、家のない人間が「帰る」ことはできない。家がないのだから帰りようがない。だが、これは同時に「帰る分、進むことができる」ということでもあった。飲み会が終わる。みんな家に帰る。が、私は帰らない。帰るということができない。必然的に、たまたま居合わせた誰かの家に泊まるか、最寄りの漫画喫茶で眠ることになる。毎晩眠る場所が代わり、毎朝「ここはどこだ」と思いながら目覚める。そんな感じの日々を過ごしていた。

家なし生活序盤は、関東圏を中心に移動を続けていた。が、数ヶ月後には県外からも「君は面白いから遊びにおいで。交通費は出すよ」と声がかかるようになった。最初は佐賀県だった。私は新潟生まれの人間なので、九州にはほぼほぼ足を運んだことがなかった。ので、このお誘いには「無料で九州に行けるなんて!」と(極めて貧乏性的な)テンションのあがり方を示した。

佐賀に到着する。すると、それを見た周囲の方々も「こいつは旅費さえ出せば(県外でも)来るぞ!」と思ってくださったのか、鹿児島、長崎、福岡、大分、宮崎、熊本からも連絡が届く。「無料で九州を巡れるなんて!」と極めて幼稚なテンションのあがり方を示したけいご坊や(私)は、家のないもののフットワークよろしく、ひたすら移動を続ける日々を過ごしていた。

自分に起きている現象を観察しながら、頭の中では常に「こうあるべきの外側」について考えていた。普通、日本各地を旅行するためには「数ヶ月間、バイトなり仕事をして、それによって貯めたお金を通じて旅に出る」ものだと思う。が、家をなくしてからの方が、自分の力だけで生きることを諦めてからの方が、確実に全国各地を(超高速で)巡れているこの現象はなにか。

自力とはなにか。他力とはなにか。自立をするとはどういうことなのか。一人前とはなにか。自分だけの力で生きることなのか。半人前とはなにか。誰かに頼ることなのか。誰かに頼ることは悪いことなのか。人間は、ひとりで生きるようにつくられているのだろうか。私は「生きている」のだろうか。それとも「生かされている」のだろうか。自分だけの力で生きていると思うことは、もしかしたら、非常に傲慢なことなのではないだろうか。など。

社会不適合者という言葉がある。しかし、自殺者が年間3万人いて、鬱病患者が100万人いると言われている日本社会に適合したら、おかしくならない方がおかしいのではないか。必要なことは、適合よりも開墾ではないか。開墾とはなにか。それは「自分みたいな人間でも生きやすい土壌を開墾すること」ではないか。そのことが、やがて「自分みたいな誰かにとっての力にもなる」のではないか。実は、結構多くの人々がそのことを薄々感じているのではないか。だからこそ、自分に声がかかっているのではないか。など。

答えはない。ただ、問いだけがあった。

その間にも声はかかり続けた。九州、四国、中国、関西、東海、関東、北陸、東北、北海道まで、全国各地から声がかかった。この現象はなんだ。これまで数えるほどしか飛行機に乗ったことのなかった男が、連日飛行機に乗るような日々を過ごしていた。この現象はなんだ。お金を払うから泊まりに来てくださいと言われるようになった。この現象はなんだ。移動先では、各種イベントにゲストとして登壇をする機会も増えた。この現象はなんだ。

複数の出版社から本を書かないかと連絡が届いた。この現象はなんだ。結果的に47都道府県すべてに(旅とか全然興味なかったのに)足を運んだ。この現象はなんだ。行く先々の観光名所を訪れ、行く先々の名物料理を食べ続けた。観光も料理も全然興味なかったのに。この現象はなんだ。家もないくせに、金もないくせに、家も金もなにかもがいまよりもずっとあった頃よりも、明らかにバラエティに富んだ日々を過ごしていた。この現象はなんだ。

私は、決して「家のない生活をはじめたら、その生活が面白がられて全国各地を飛び回るようになり、連日のようにトークイベントに登壇する日々を過ごしたのちに本を出版する機会を得るだろう」と思って、この生活をはじめた訳ではなかった。ただ、家(や彼女)をロスするとみんなが優しくなって焼肉などをご馳走になる機会が増えるという発見が斬新で、末っ子根性を爆発させていただけに過ぎなかった。腑抜けた動機だと思う。ふざけた生き方だと思う。が、人生は何が起こるかわからない。いつの間にか、私は周囲からも「(無一物で生きるとは)勇気のある男だ!英雄だ!」と、極めてピンとこない賛辞のシャワーを浴び続ける日々のど真ん中に置かれていた。

勇気も度胸もなにもなかった。ただ、「これをやったらどうなるのかな?」と思う好奇心だけがあった。それに従っただけだった。多分、私は予測不可能性を愛しているのだと思う。予測できる展開ではなく、予測できない(自分の想像を軽々と上回る)展開にこそ興味があるのだと思う。逆に言えば、予測できる結果がイメージできてしまった瞬間に「俺の人生は行き詰まりだ!この世の終わりだ!」などと簡単に死ぬ、精神的弱者なのだと思う。

普通、生きるためには「増やして、増やして」の思考をする(と思う)。学歴だとか、収入だとか、社会的な肩書きだとか、自分の外側に張り付けたものを通じて自分を誇り、安心を覚えるようになる。が、私の場合は「何もかも失った結果花開く」という逆説的な展開を見せた。皮肉な流れだと思った。「増やして、増やして」ばかりを考えていた人間が、生きるために大事だと思っていたものをロスすることで(結果的に)生きる道を見出し、視聴率があがり、他者から「必要としていただける機会」も日に日に増えた。

これはどういうことなのか。自分に何が起きているのか。自分の語彙力だけでは、まるで説明をすることができなかった。誰かに、この現象を解説してもらいたいと思った。「増やして、増やして」という一般的な王道ではなく、「減らして、減らして」という覇道で光を見た覇者に、この現象を言語化してもらいたいと思った。どこに行けば覇者に会える。なにをすれば覇者に会える。私は、いつの日か「覇者と話したい」と思うようになっていた。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

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坂爪圭吾

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僕も好きだとも!君が!
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