私は、悪人より一般人の方が嫌いだ。
結婚して子供を育てて週末はイオンに行く、みたいなことができる人は俺のブログを読まないでいい。一回も地元を出たことがないのに「地元最高」と言いながらみんなで集まってBBQできる人は俺のブログを読まないでいい。自分らしくとか幸せになりたいとか大事な人を大事にしたいとか思う人は、俺のブログを読まないでいい。俺のブログは、そういうことに対して「そういうことじゃないだろう」と違和感を覚えた人に向けて書かれている。悪人よりも、一般人の方により多く苦しめられてきた人に向けて書かれている。
私は、悪人より一般人の方が嫌いだ。悪人には美学がある。だが、一般人には美学がない。みんなと同じように考えて、みんなと同じように行動する。そこからはみ出した人間に「非人」の烙印を推し、平気な顔で迫害をする。結婚をしていない人間は、結婚をしていないだけで「結婚ができない人」と可哀想な人認定をされる。成人式に晴れ着を着ることを拒むと「この世の中には、着たくても着れない人がいる」など言って諭される。それならば着たい人が着ればいいじゃないか、私は着たくないのだ、着たい人にあげればいいじゃないかと言うと「屁理屈を言うな」と怒られて、感謝を強要される。一般人には筋がない。あるとしたら、それは「みんなもそうしているから」という、ただそれだけのことだ。理屈が通っているのはこちらの方なのに、彼らの屁理屈を強要される。食べたくても食べられない人がいるなら、食べたい人にあげればいいじゃないか。そう言うと殴られて、嫌いなものを口の中にぶちこまれる。一般人の発言は常識的だが、一般人の行動は非常識だ。
私は「私は性格が悪い」と前置きをする人間が好きだ。同じ匂いを感じる。私にはわかる。あなたの性格は悪くない。ただ、真っ当なだけだ。真っ当な発言は、一般人が最も嫌悪するところだ。一般人は「自分らしく」という言葉を好む。誰かに迷惑をかけない限り何をしてもいいなどと、表面的には自由っぽいけれど実際はめちゃめちゃ肝っ玉の小ちゃい発言をする。一般人には、自分の存在が自分の意図を超えたところで誰かの迷惑になることなんてザラにあるという現実を思い描く想像力がない。自分らしくと言う人ほど、何もしない。幸せになりたいと言う人ほど、不幸に見える。大事な人を大事にしたいと言う人ほど、退屈だ。街を歩くと「大事な人のためにマスクをしましょう」などといったアナウンスを耳にする。「大事な人との時間」とか「大事な人のためのギフト」とか、大事な人が人質にされているみたいだ。一般人の言うことを真に受けると、一般人の沼に嵌る。個性は埋没し、生きた死体になる。死体になりたくない私は、一般人の沼に嵌る考え方を拒む。
私には大事な存在がいる。彼らと過ごす時間は最高で、彼ら単体の生き方を見ても「最高だな」と思う。私は、彼らを大事にしたいと思わない。そんなことよりも、常に緊張感がある。心地よい緊張感だ。自分がつまらない生き方をしていたら彼らとの関係性が終わる。私は彼らのことが大好きだから、これからも一緒にいたいと思う。そのためには自分を磨く必要がある。彼らは自分を大事にしてほしいと思っていない。そんなことよりも、もっとめちゃめちゃにやってくれよと思っている。俺に感謝をしている暇があったら、もっと俺を楽しませてくれ。もっと俺を震わせてくれ。それが一番のご褒美だ。大事にするだなんて気持ち悪い。幸せを願うだなんて上から目線も甚だしい。そもそもで、彼らは幸せになろうとしていない。幸せになりたいと思っていない。彼らは一様に「もっとめちゃめちゃにやってくれよ」と思っている。もっと俺を楽しませてくれ、もっと俺を震わせてくれと思っている。
だから、結婚して子供を育てて週末はイオンに行くみたいなことができる人は俺のブログを読まないでいい。春分の日に宇宙元旦とか騒ぎ出す馬鹿や、WBCに熱狂するだけ熱狂するものの自分の人生ではバットを振らないばかりか打席にも立たない連中も、女を捨てたおばさんも男を捨てたおじさんも、俺のブログを読まないでいい。大事な人を人質にして子供のためとか家族のためとか未来のためとか言う人も、俺のブログを読まないでいい。牡羊座を舐めるな。太陽は、確かに温かいし道を照らす光にもなる。だが、迂闊に近づくと火傷をするばかりか、焼死する。火事と喧嘩は江戸の花。俺たちは、花の慶次を自前でやろうとしているのだ。私には大事な存在がいる。彼らの要求はただ一つ。もっとめちゃめちゃにやってくれよ。それだけだ。俺は俺を生き切ることが、最大の供養になる。私もまた、彼らに同じことを望む。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!