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信教の自由を認める信仰とは何か③

前回は、主に献金問題について取り上げた。

今回は、宗教が問題を起こす要素、つまり信教の自由を阻害する要素から逆算して問題を洗い出してみよう。私が大きな要素と考えるものが3つある。

①二元論に走らない

信者VSサタン(外道とか凡夫とか教団によって言い方はいろいろあろう)という見方をしないことだ。
教団内は清浄で、外の社会は穢れているというような思想も同じだ。
加えていうなら、自分の考えは間違っていて教祖の考えは正しい、も同じだ。
全て「0か100か」の二極化思考であり、これでは通常の人間関係でもトラブルが起きやすくなる。必然、教団内にしか居場所がなくなっていく。

いかにこの考え方が、人をコントロールするうえで大切なのかを示す参考までに、統一教会では最初に、物事はすべて二性性相なのだと二元論を教え込む。二元論を叩きこんだ後に、これも正しい、次も正しいと認めさせれば、それに反する間違ったことはできなくなる。そして正しいことをやらざるを得なくなる。
逆に、教義と違うことは「間違った」ことなのだから、不安や罪悪感に苛まれることになる。
(もちろん教義を伝えた人全員がこんなに都合よくいくわけではないが、この流れに乗る人だけが信者として残ることになる)

②救済はこれ一つだと言わない

救済はこれ一つだと教えるから、ここを辞めたら地獄に堕ちると怯えることになる。

教祖と呼ばれる人たちは、誰も強烈な神秘体験をしている。「あぁ、神はいるんだ!」「これが真理だ!」という強烈な実感は疑いようがないだろう。教祖だけでなく、信者にもそのような体験をした人は数多くいる。
たしかに「神」はいるかもしれないし「真理」はあるかもしれない。
そして神秘体験はその証かもしれない。

それでも、「神」の全てを見たわけではないし「真理」の全てを知ったわけではない。
こんなことを言うと、わが教祖が神の全てを見たわけではないとは何事か、これが唯一絶対の真理だと言わない宗教などあるものかと怒る人もいるかもしれない。
そうだろうか。私は全くあり得ると思う。

教祖の中のNo.1を誰が決めるのか

仏陀や、イエスや、ムハンマドのうち、誰が正しくて誰が間違っているかを判別できるのは、この3人を超えた人物だけだ。特定の宗教が正しくて他が間違っていると判断するのは、私はこの3人を超えたと自負する傲慢な行為ではなかろうか。世界には他にも大勢の教祖がいる。文鮮明や韓鶴子が偽物かどうかは誰にも判断できない。

昔、仏教では宗派は分かれていても対立はしていなかった。最澄(天台宗)は、空海(真言宗)に弟子入りしている。(空海が最澄の依頼を断つようになったのは、宗派の違いからではなく、修行をせず知識だけ得ようとする姿勢に怒ったからだ)
歎異抄や般若心経に触れる牧師もいる。
聖書を読経する僧侶もいる。
イスラム教はキリスト教やユダヤ教を否定する教えではない。
チベット密教はクリスチャンならクリスチャンのままでよいと言っている。

富士山に登るのに、東から登らなければいけないという法はない。東から見た富士山と西から見た富士山で違って見えるのは当たり前というものだ。
真理と求道は、このような関係ではあるまいか。

③生きている今よりも死後を重要視することはしない

死後の世界をこの世よりも重要視するから、先祖解恩に全財産を投げ出すことになる。イスラム教原理主義の自爆テロも同じだ。

死後の幸福のために善行をしましょう、徳を積みましょうというのは、今生では決して救われない人たちに心の安らぎを与え、やけくそにならず今生を正しく生きていくためではなかったか。

先祖の因縁や前世を知るのは、今をより幸せに生きるために必要だからだ。

イエスや仏陀は、生きる人々を宗教から救った

イエスの時代、エルサレムはローマの統治下にあり、右の頬を打たれても殴り返すことなどできない時代だった。そんな閉塞した社会の中で、ラビにしか分からない難しい規則と多くの供え物を必要とするユダヤ教は、知識のない人々や貧しい人々を抑圧していた。キリスト教は、それらを否定し、弱い人たちを宗教から解放した。
「ラビに従う必要はない、供え物なんて要らない。信仰だけがあればいい。神は全ての人(ユダヤ人)を愛している。」

仏陀の時代にはカースト制度があった。私が今、奴隷(シュードラ)なのは前世の因縁であるという考えを、解脱という輪廻から脱却できる道を示して仏陀はひっくり返した。苦しむ人々には来世は奴隷ではないかもしれないという希望を与える一方、来世は王族(クシャトリヤ)ではいられないかもしれないという恐れは悪行を控えさせる。

二人とも当時の宗教から人々を救ったのではなかったか。

各々が真理と向かい合う

ひるがえって今はどうか。
自分が直面する社会問題を解決できる時代だ。死後を生よりも重要視すれば解決しなければならないものから目を逸らすことになる。(一切の戦争反対を謳いながら、私たちは神の国の住人だからと選挙の投票を認めない教団もある。これでは戦争が起きることに加担しているのと同じだ。同教団トップは武器関連の株で儲けているという噂もある)

死後に望みを託すより、幸せな人生を掴むために努力しよう。死は、人生を大切にするための鏡である。そのための宗教を再構築する時ではないか。

それでは、また。

世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。