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信教の自由を認める信仰とは何か①

旧統一教会問題が連日報道されている。
生活が成り立たないほどの多額の献金や奉仕活動、2世信者への人権侵害など、問題はいくらでも出てくる。

周知のとおり、旧統一教会は自民党を筆頭に政界との癒着を深めており、安倍元総理はビデオメッセージでを送った安倍元総理を「国賊」と呼んだとして村上誠一郎衆院議員が1年間の党役職停止処分を受けた。

元とはいえ自らが所属する党の党首を悪し様に言うのは、自分が勤める会社の社長の悪口を言うようなものだ。

であれば、与党として国家の運営を担う自民党からすれば、野党や国民は取引先や顧客であるが、顧客らの意見に耳を貸さない企業があるだろうか。いや一般企業であれば「うちを気に入らない客はよそへ行ってくれ」とも言えるが、それが国家がやれば「政府が気に入らないなら国を出ていけばいいじゃないか」と言っているに等しい。
もちろん、山際経済再生担当大臣の「野党の人からくる話はわれわれ政府は何一つ聞かない。」発言の話だ。

「国賊」発言が党役職停止処分で、「何一つ聞かない」発言が「発言を慎重に行うよう注意」に留まるというのは、違和感がある。

誰のための政治なのか。この差を見る限り、国民のための政治とは到底思えない。これでは、安倍元総理と旧統一教会との関係を洗い直すどころか、安倍元総理が築きあげた教団との絆を断ち切ることなどできようはずはない。「社会的に問題があると指摘される集団」という言い方を繰り返すのも固有名詞を出さないという密約があるのではなかろうか、なんとか宗教法人の解散を防いでやがては元通りに……と目論んではいないか。

ロシアがウクライナに侵攻したとき、岸田首相は各国に先立って非難声明を出した。そのとき私は日本の首相を誇らしいと思ったが、それはもしかしたら勘違いだったかもしれないと最近になって思う。
それは、「勝共」を声高に叫ぶ絶好の機会だっただけではないだろうか。安倍元総理、そして旧統一教会に秋波を送っていたものを、私は何も知らずに拍手をしていたのかもしれない。

そんな現状の中、紀藤弁護士など旧統一教会に対峙する人権派弁護士はフランスのような反セクト法を作るべきという。


セクトを識別するための10の基準(Wikipediaより転載)

  1. 精神的不安定化

  2. 法外な金銭要求

  3. 元の生活からの意図的な引き離し

  4. 身体の完全性への加害

  5. 児童の加入強要

  6. 何らかの反社会的な言質

  7. 公序への侵害

  8. 多大な司法的闘争

  9. 通常の経済流通経路からの逸脱

  10. 公権力への浸透の企て


各項目の詳細を知っていれば分かるのかもしれないが、私のような素人にはどれも基準が曖昧過ぎて分からない。

「不安定」とは誰から見てなのか、「法外」とは?「意図的」とは?
そこに、誰かの恣意的な判断が絡む余地があれば、反セクト法は容易に宗教弾圧へと移行しないか。

例えば「4.身体の完全性への加害」は割礼などを指すものかもしれないが、髪の毛を切らせることも加害と言える。つまり、解釈を広げていけばあちこちにあるお寺も該当することになってしまう。もちろん条件のうち一つが該当したから即カルトと判定するわけではなかろうが、危険性を孕んでいるとは言える。

逆に、政治との癒着があれば問題ある団体が見逃されるということにもならないか。

この法律がよしんば制定されたからといって、これに旧統一教会が当てはまるという判断を自民党が許すとは思えない。

では、基準は作れないのか。
もちろんそんなことはあるまい。
さらに言うならば、率先して基準を制定すべきは宗教団体自身ではないか。

今まで宗教界は、自分たちは守られる立場のものであって、人(=信者)の信教の自由を守るべき立場にいるなどと考えたこともなかったのではあるまいか。

自分たちが守る基準なら、政府が作ったものを一方的に押し付けるのではなく、どうやって伝道と信教の自由が併存するのか、その在り方を自分たちで考えるべきではないだろうか。

もしかしたら、既に考え実践している教団もあるかもしれない。
そういう知恵を持ち合い、宗教界全体で守るべき基準を作ってもらいたい。

次からは、私なりに基準を考えてみたい。

それでは、また。

世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。