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きっと罰(バチ)が当たったんだ

「きっと罰(バチ)が当たったんだ」と言うのである。
なんで今になってそんなことを言うのであろうか。

だっておかしいではないか、"罰(バチ)が当たる"というのは仏教の言葉ではなかっただろうか。調べてみたらやはりそうであった。

ばち【罰】 が 当(あ)たる=悪行の報いとして、神仏から現世で苦しみを与えられる。
https://kotobank.jp/word/罰が当たる-2074627

だから、なんで今になって「きっと罰(バチ)が当たったんだ」とか言い出すのかと思ったのだ。調子がよかったり、自分的には順調に過ごせて、そんなに大変ではないときには「神仏に感謝」をしている様子はなかったように見えたからだ。

なにしろうまくいっている時はずっと『自分が一番正しい』だったように見えた。「自分はこのようにちゃんとした人生を送れている。だから自分は正しかったんだ」と、まるで自分の手柄のように話してたではないか。
「お前みたいなデタラメな人生を生きているような奴は、絶対にうまくいくわけがない、少しは私を見習ったらどうだ」と自信満々だったではないか。

だから、今になって「きっと罰(バチ)が当たったんだ」なんて言うのはなしだと思う。今まで『自分のせい』だったのなら、今の状態も『自分のせい』と言うのが本当であろう。

なんでなんだろう。なんでうまくいかなくなってはじめて神仏の存在を感じるんだろうか。なんでうまくいっている時に「神仏に感謝」する気持ちにならないのだろうか。
うまくいくのは「自分のせい」。うまくいかないのは「神仏のせい」。そんな言われ方したんでは神仏もちょっと納得いかないのではなかろうか。

私はこの世の中を「理不尽(なんで私がこんな目に遭うのだ)なんではないか」と思うことがよくある。でもそれは当然なのかもしれない。
私たちはうまくいかなくなってはじめて「これはもしや神仏のせいなんではなかろうか?」なんて思ったりするのだ。だからこの世の中は不本意ながら「理不尽である必要がある」のかもしれない。

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