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『日本人はなぜ無宗教なのか』〜自然宗教の優越と日常主義によるものである!〜書評と要約

海外の人と話すとよく、「あなたは何の宗教を信じているの?」という話になります。

それに対して多くの日本人は、「神を信じていない。無宗教だよ。」と答えるでしょう。自分もそうです。

しかし、西洋人にとって、宗教を信じていないということは、生き方の規範・教義の持たない堕落した人間だと捉えられかねません。

では日本人は何故無宗教なのか?そもそも本当に無宗教と言えるのか?

その理由は、科学の進歩によって神的存在への疑いが持たれるようになったからだけではありません。日本独自の理由があるのであり、そのことが精緻に説明されている本『日本人はなぜ無宗教なのか』を読んだので、その書評と簡単に要約をまとめます。

日本人の言う無宗教とは?

日本人が、無宗教です。と言う時、その多くは「神は絶対にいないと思う」という無神論を意味する訳ではありません。

論理的に考え抜いて、無神論を標榜している訳ではなく、あくまでも「特定の人が創始し、特定の教義を守り、特定の神を崇める創唱宗教」には少し違和感を覚える、という意味なのではないでしょうか?

本の中で、著者の阿満利さんは日本人が言う無宗教とは何なのか、いくつかその特徴を挙げられていましたが、その中で重要な要素は2つあると自分は思いました。

日本人の無宗教とはどういうことか?

1. 「創唱宗教」に対する「自然宗教」の優越
2. 日常主義で毎日の生活を維持することを重視

それぞれ順に説明します。

自然宗教・民間信仰とは?

日本人は、宗教というとキリスト教やイスラム教のような、創造主としての唯一絶対神を崇める信仰だという意識があると思います。

一方で、阿満利氏は、墓参りのような先祖崇拝や初詣のような参拝は立派な民間信仰であり、日本人は自然宗教を持っていると主張しています。

ではそもそも、宗教とは何なのか?広辞苑を見ると以下のように書いてあります。

宗教の定義:
神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。

確かに、民間信仰のような、具体的な教祖や教義を持たないものも宗教に入るようです。

では「自然宗教」とは何なのか?

自然宗教の定義

特定の教祖や経典を持たない、自然発生的に生まれた "しきたり、儀式、考え方、教えなど"

具体例として、先祖崇拝やお祈り、お祓いなどが挙げられます。特定の創造神を信じておらずとも、これらはほとんどの日本人が行なっている行為だと思います。人々の生活を豊かにする宗教を日本人は持っていると言えるのです。

自然宗教をもつ日本人が、自分は無宗教だと言うのはなぜか

日本人は立派な自然宗教を持っているにも関わらず、自分は無宗教だと標榜する。それはなぜか?

その理由は2つあります。

1. 明治政府が宗教を「内と外」に分けたから
2. 西欧中心の宗教観に圧されたから

まず一つ目の理由。
明治政府が宗教を「内と外」に分けたから。
近代において、諸外国精力と対等に渡り合うために文明が発達している必要がありました。そこで明治政府は、天皇を中心とした立憲君主制に基づく民主主義を樹立させようとしました。
そのために政府が全国に広めたのが神道です。全国の神社に神官としての官僚を送り、天皇の祖先であるアマテラスオオミカミを崇める神道を広めました。
しかし同時に、「政教分離」を主張する勢力や、「信教の自由」を認めてキリスト教を布教させようとする西欧から圧力がありました。

そこで、明治政府が持ち出したのが「神道非宗教論」です。そして、その裏付けとなるのが、宗教は「内と外」に分けられるという主張です。要するに、「内=個人の信仰心」と「外=布教や儀式」とは別物であり、神道は儀式や慣習に過ぎないので宗教ではありません!と主張したのです。

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しかし、必ずしも内と外は別物だと割り切れるものではありません。儀式や慣習の裏には、先祖を敬う気持ちや、八百万の神様に対するなんとなくの敬虔な気持ちがあるのではないでしょうか?
このような明治政府の神道非宗教論により、日本人は、自分達が信仰しているのは宗教ではないと自覚するようになります。


そして二つ目、西欧中心の宗教観が浸透したから。
近代日本には、少なからず西欧偏重主義的な気運がありました。そのため、宗教とは、キリスト教のような「教義や教団が体系化されたもの」だけを指し、それ以外の曖昧な信仰は宗教とは言えないとする考え方が知識人の間にまで広まりました。
その結果、キリスト教のような宗教を日本人は持っておらず、自分たちは無宗教だと標榜するようになります。
しかし先ほど確認したように、本来は、明確な教義や教祖を持たない民間信仰も、立派な宗教の一つであると考えられるはずです。

日常主義とは?

ここまで、自然宗教の存在に着目しながら日本人が無宗教である理由を説明してきました。

次に、もう一つの重要な特徴である日常主義について説明します。

日常主義とは、「日常生活を維持し営むことを何よりも尊重する考え方」です。

宗教を信仰した場合、日常生活からは逸脱した活動を行うことがしばしば有ります。例えばキリスト教の場合、布教活動や礼拝を行いますし、仏教や禅の場合は出家をしたり修行をすることもあるかもしれません。これらの活動は、必ずしも日常生活を維持するために必要なことでは有りません。

日本人は、「何のために人は生きるのか?どう生きればいいのか?」と人生に疑問を持ち、その答えを宗教に求めることよりも、まずは今の生活や社会を維持し営んでいくことに関心があったということです。

日本人が日常主義である理由

では、何故日本人は日常主義となったのか?

その理由も二つに整理できます。①儒教と②葬式仏教です。元々、平安時代など中世において日本人は死後の世界に強い関心が有りました。それが、室町、江戸と時代が進む中で儒教や仏教の文化が広まり、死後の世界よりも日常生活を重視する価値観が広まっていきます。

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①現実主義的な儒教

儒教は、元々は中国社会の支配階級に属する人々にとっての政治哲学であり、処世術を伝えたものです。死後の世界についてや、人間はどこから来たのか?といった多くの宗教が説く教えは対象外です。そのため、死後の救済は関心の範囲外となります。

室町時代になると、それまで神仏を尊崇することを勧めていた武家の家訓に、儒教の徳目、すなわち仁義礼智信を守ることが加わってきます。神仏を頼むのではなく、仁義礼智信という、現実世界・日常世界における人間関係の理想的なあり方を追求していくことが重視されるようになります。

このような儒教の考え方が、日本人の日常主義を形作った一つの理由であるといえます。また、仁義礼智信という考え方があったからこそ、特にサムライのような特権階級において道徳意識が維持され、キリスト教のような教義を持った宗教がなくとも社会が維持されていたのでしょう。


②死後の安心感を与える葬式仏教

先述したように、中世の日本人は、死後に対する強い関心を持っていました。この世に恨みを抱いて死んだ人間は、この世を祟る霊となると信じられており、その扱いに窮していました。これは古代日本の「自然宗教」です。

一方で、法然らによる新興仏教が生まれました。法然が開祖となった浄土宗では、「阿弥陀仏」という念仏を唱えることで仏様の慈悲によって人間は極楽浄土へ行けると考えるようになります。このような念仏は、死者の鎮魂慰霊のためではなく、あくまで生きている人間のためのモノでした。

*法然の教えである念仏は、必ずしも釈迦による仏教の教えとは異なります。中国の「孝」の考え方を取り入れながら日本にやってきて姿を変えたものが浄土真宗です。釈迦・ブッダの教えは、念仏や極楽浄土とは関係なく、あくまで「無」を教え、輪廻を解脱することを教えています。


日本に「念仏」が広まったという条件下で、14~16世紀にかけて、村の中で「イエ」の概念が成立するようになります。村々において「家」という意識が明瞭となると、人は死んでも、「家」の一員として祭られ続けるという信念を持つようになります。

このように、念仏と家意識が合わさることによって、日本独自の葬式仏教という形式が生まれていきました。この葬式仏教は、江戸時代に寺請檀家制度が整備されることでさらに広まっていくことになります。

寺請檀家制度とは、江戸幕府がキリシタンを禁制するために行われた、民衆を家ごとの一つの仏教寺院に帰属される現在の戸籍制度のような役割を持ったものです。この結果、田畑や屋敷を持つような本百姓はもちろん、財産を持たない水呑と呼ばれる全国の百姓にまで「家」の意識と「葬式仏教」が広まることになります。

葬式仏教と、それを強化した寺請制度によって、死んでも安心だという意識を日本人が遍く持つようになりました。このことが、死後のことなど考えずに今の生活を維持していればいいという日常主義に繋がったといえます。

まとめ:日本人はなぜ無宗教か

これまで見てきたように、「無宗教」といっても、その歴史を紐解けば様々な背景があり、特に自然宗教と日常主義という二つの特徴があるからこそ、現在の無宗教意識に繋がっているといえます。

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また、無宗教だからといって生き方の規範や指針を持たない訳ではなく、先祖崇拝といった立派な信仰や、仁義礼智信といった道徳意識を日本人は持っています。

無思考に「私は無宗教です」と言うのではなく、そうした豊かな日本人の文化を理解し、主張すべきなのかもしれません。新渡戸稲造の書いた武士道は、そうした日本人の道徳意識を世界に発信すべく書かれた一読すべき良書だと思います。

レビュー:感想とか反論とか。

・農民文化も含めた幅広い視点から日本人の宗教観を説明

この本は、日本人がなぜ無宗教なのかについて、時代ごとの背景に丁寧に触れた上で説明されています。また、武士のような支配階級だけでなく、農民など凡庸な一般人の視点からも、各時代でどのような価値観で生きていたのかが考察されておりかなり面白いです。

・土着の宗教に関する豊な記述

また、明治政府の神道にまつわる政策や、沖縄に今でも根付いている土着の宗教など、今まで知らなかった日本文化について数多く触れられている点も魅力的です。特に土着の宗教については、筆者が実際に足を運んで感じた不思議な文化に触れることができます。

・西洋との対比しないと、本当のところは分からんのじゃないか?

日本についての多様な記述があった一方で、西洋と対比された議論はほとんど見当たりませんでした。無宗教である理由を考察するのに、無宗教ではない人々と比較しなければ本当のところは分からないと思います。例えば、「生産性の向上により、死後のことより現実世界のことを大事にするようになった」といった記述があるが、その因果関係は西洋と比較してこそはっきりするのではないでしょうか。

より深い理解のためには、他の本も参考にする必要があると思いました。


・宗教を肯定する立場での記述

「豊な宗教観が無くなってしまった。」「人はなぜ、何のために生きるのかを考えるときに宗教が出てくる」といった説明が出てきますが、これらの記述は、仏教に造詣が深い筆者の、宗教に対して肯定的な立場によるものだとしばしば感じました。

宗教を否定する訳ではもちろんありませんが、今の現代人に必要なのは、必ずしも宗教が生き方を教えることではなくはなく、「どうやって自分で人生を決めるのか?どのように生きることを自分で選択するか」ということだと思うのです。そういった点から、少し読んでいて不足感を感じることがありました。

最後に

日本人がなぜ無宗教なのか、時代ごとに細かく洞察されていました。その中で、様々な理由や背景が説明されていましたが、誤解を恐れず少し単純化して、「日常主義と自然宗教」が重要な理由であるとまとめさせていただきました。(かなり論理を再構築しているので、著者の意図とは異なる部分もあるかもしれません。日常主義や自然宗教以外の説明も沢山あったので、気になる方はを読んでみてください!)

またこちらの本は、さらに原因を一つ深く探り、なぜ日本では自然の中の神々を深く信仰する文化が生まれやすかったのか。なぜ儒教や仏教が導入され安かったのか。「自然宗教や日常主義」に関してさらにWhyを繰り返した先に行き着く、国土と日本人の性質について考察されています。かなりオススメです。


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執筆 / 養田峻介

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