歌舞伎の楽しみ 〜その衣装、石持〜
今回は歌舞伎の特殊な衣装について触れてみましょう。
まず、石持、これを「こくもち」と呼んでいます。もともとは衣裳用語です。
無地または無地に近い着付けの紋のところが丸い白抜きになっている衣裳のことです。人形浄瑠璃から導入された丸本歌舞伎で、身分の低い女性やら世話女房、田舎娘などが着用しています。
「石持」の着付けは無地の着物ばかりとは限りません。田舎娘の着用する衣裳にいい例があります。「妹背山婦女庭訓」の可憐な少女のお三輪は「十六むさし」という江戸時代の子供向きのゲームをあしらった柄が裾や袂の先に入った緑地の「石持」です。ついでに、緑地の衣裳はどちらかといえば野暮ったい田舎娘に似合う衣裳を表しています。
世話女房・戸浪が活躍する「菅原伝授手習鑑・寺子屋」について少し話しておきましょう、、、。
武部源蔵という男がいました。彼は菅原道真の愛弟子で、筆法(書道の奥義)の伝授を受け、京都の北、芹生の里で寺子屋を開いています。伝授を受けたということだけでも道真には大変な恩義を受けたことになりますが、加えてもう一つ大きな恩がありました。それは、以前、源蔵が道真の屋敷に勤めていた頃、奥方の侍女だった戸浪と道ならぬ恋に落ちてしまったのです。当時は、主人の認めない同じ屋敷の中での恋愛は御法度、極刑にも値する大問題でした。
が、結局「不義の咎」という寛大な措置でお家を追放されることになりました。それによって戸浪は源蔵の妻になり、都の郊外で細々と寺子屋を開いていたのです。勘当を受けたものの、彼は兄弟子を差し置いて道真からは書道の奥義「筆法」を伝授されています。
そんなうち、突然、道真は左大臣藤原畤平との政争に巻き込まれ、讒言によって九州太宰府に流罪となってしまいます。
二重の恩義を受けていた源蔵は、菅原家の断絶を防ぐため、閉門となっていた館から密かに道真の幼い一子菅秀才を助け出し、寺子屋に自分の子として匿っていました。
ところがそのことが敵方に漏れてしまい「首討って渡せ」との命令が来てしまうのです。源蔵には実子はいません。しかし大恩ある道真の御曹司を殺すわけにはいきません、なんとしても秀才を守らなければなりません。寺子の内から身替りをと思っても菅秀才には似ても似つかぬ、、それらしい子はいません。
そんな時、今日寺入りしたばかりの品のいい子を妻の戸浪から引き合わされます。後でわかるのですが、その犠牲になった子こそ、敵方、時平の舎人をしていた松王丸の一人息子小太郎だったのです。
さて、ここで登場する戸浪の、目立たない地味な衣裳が「石持」です。脇役ながら世話女房の役柄です。彼女は栗梅という色の石持の衣裳で、黒襟を掛けています。
衣裳の色は、ここでは「栗梅」ですが、エビ茶、鳶色、浅葱色が多く、それに黒襟を掛け、白の手拭いを挟んだ黒繻子の帯です。地味だけど渋い味わいを感じさせる扮装です。これが典型的な「世話女房」です。
ところでこの芝居、これも恩ある道真ながら敵方時平の家来となっている松王丸が、自分の一人息子をわざわざ前もって寺子屋に入門させ、源蔵はその子を菅秀才の身替りに殺す、、、。忠義という封建道徳のためには自分の肉親さえ、また、我が子同然の教え子まで殺してしまう、、、なんと非人間的なバカバカしいドラマだろう、と思ってしまいます。
しかしチョット考えてみたいと思います。
歌舞伎って、もともと武士のための芝居ではありません。江戸時代、町人、市民相手のものでした。 その一般市民は封建制度がもとになっている徳川体制の中で、武士階級からは謂れのない、身動きできないほどの抑圧を受けていたことはご存知の通りです。そんな民衆が封建的な「忠義」を賛美するドラマを喜ぶはずがありません。
「寺子屋」のテーマは、実は、「忠義の勧め」ではないのです。
忠義のためなら自分の子、自分の教え子さえ犠牲にしなければならない封建社会、支配勢力への怒り、あきらめ、肉親、教え子を手にかけなければならない悲しみ、、、これこそがこの劇の主題なのです。
この「殺し」の前に展開される箇所、松王丸の子とは知らず、小太郎を身替りにすることを決心した源蔵が妻戸浪につぶやく「せまじきものは 宮仕え」という
ひとことがそれをはっきり物語っています。
どんな身分であっても代わることができない情、人の心の中に本来持ち合わせている「自然な、あるべき姿、それが、世の矛盾によって絶たれ、歪められた悲しさ、苦しさ」を描いたところにこのドラマを貫いている根本のテーマ(主題)があるのです。
こういったテーマを扱う演目は歌舞伎には多くあります。
言い換えるならば、歌舞伎とはこうした誰でもが持つ「普遍的な人間性を描き、それを独自の洗練された音感、美感によって表現された庶民のための演劇」と言えるのです。
さて、話を「石持」に戻しましょう。
歌舞伎の衣裳の中で石持の特徴をあげると
① 歌舞伎の女方の役柄を示す重要な構成要素で、時代がかった世話場にはピッタ
リのユニホームといえます
② 没個性のように見えて、かえって個性が出る不思議な衣裳です
③ 武家や公家、裕福な町人は家紋を持ちますが、普通の町人や百姓の衣裳には紋
がありません。そこで出来たのが丸の中を白で抜いた紋、それが石持です
④ 地味ながら甲斐甲斐しい、あまり目立つことを好まないような女房ぶりを示す
女には石持がよく似合います。
女性の衣裳の「石持」は前に書いた役以外のもいろんな演目に見られます。
義経千本桜・すし屋 権太の女房こせん
義経千本桜・渡海屋 銀平の女房お柳
傾城反魂香・吃又 又平の女房おとく などなど
「石持」の衣裳は男が着用する場合もあります。
例 熊谷陣屋 石屋の弥陀六 実は弥平兵衛宗清
新版歌祭文・野崎村 百姓久作
「石持」を着る「世話女房」や「田舎娘」という役柄も、女方の「役柄」の一つですが、ほかにも女方の役柄の分類にはきまったパターンがあります。
それにはまず、女方の歴史をたどる必要があります。
女方の起源
阿国歌舞伎 → 遊女歌舞伎 → 若衆歌舞伎 → 野郎歌舞伎
これ以降、本格的な女方が発生します。
阿国歌舞伎が圧倒的な人気を得た歌舞伎踊りは遊女歌舞伎へと変遷します。しかし、これが風俗を乱すという咎を受け禁止され、遊女に代わって美少年を集めた若衆歌舞伎が登場します。ところがこれも衆道を匂わす風俗に反するということで禁止され、とうとう成人男子に限って舞台に出ることが許可される野郎歌舞伎へと変わっていきます。
そこで女の役をどうするか、という難問にぶつかった挙げ句登場するのが女の役を男が代行する、「女方」が生まれるきっかけになるのです。
額を覆う手拭いは「置き手拭い」です。若衆歌舞伎に対する弾圧で、前髪のある元服前の若衆は舞台に立てなくなり、月代を剃った「野郎」と呼ぶ男性のみの出演が許されたもので、前髪の月代は若衆のシンボルであったので、それを剃った後に手拭いを載せてカモフラージュしたものです。
こうして女方の基礎ができ、本格的に女方が花開くのは元禄時代の名女方といわれた 芳沢あやめ、瀬川菊之丞という二人の役者の登場によってです。
初期の女方は、若女方と花車方の二つに分かれていました。言ってみれば「若い女」と「中年以上老け役」という大雑把なものでした。「若い女」とは、ほぼ、傾城、姫、娘などの役でした。
「若女方」は「六十になっても十六、七の娘の役を務める」のがこの役柄の心掛けで、生涯「若」の字を忘れずに舞台を務めることを言っていました。
ところが、幕末頃になると、一人一役の原則が崩れるようになって、女方でありながら若衆の役、立役(男役)まで「兼ねる役者」が続出して、女方一筋に演ずる女法を「真女方(まおんながた)」というようになりました。
次第に洗練化され複雑化した歌舞伎は「若女方」「花車方」の役柄分担の壁がなくなり、女方の役柄も細分化されるようになります。
今の歌舞伎での女方の役柄を見てみましょう。
ほかにも、遊女、芸者、悪婆、変化など、多義にわたる役柄の女方が活躍しています。
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