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自分だけの甲子園

noteの募集中の所をクリックしたら、『高校野球の思い出』というものがあったので、ちょっと自分の野球人生を振り返る意味でも応募しようと記事を書くことにしました

また、いつもの様な携帯で見やすい様な改行などは考えず、その時の思った書き方で記事を作成します


(1)野球との出会い

自分が野球を始めたのは、小学校4年生の秋から

それまでは『野球』というものに全く興味がなく、サッカー好きの父親の影響でむしろサッカーの方が好きでした

その小学校4年生の夏、家族旅行で広島に行きました

多分、原爆が投下された広島で、歴史や地元とは違う文化に子供達を触れさせたい、という両親の考えでの旅行先だったと思います

その家族旅行の観光のスケジュールの中で、旧市民球場でのプロ野球観戦(広島対中日戦)がありました

初めて見るプロ野球・・・でも球場に入ると、薄暗い球場でヤジが多く、初めて耳にする広島弁にビクビクしながらの観戦だった記憶があります

『野球って怖いスポーツだな・・・』

これが最初の印象です

しかも、5回の裏の時点で0-2で広島が負けている展開に、その怖いおじさん達がイライラしているのが見てわかる様な状況でした

『お父さん!怖いからもう帰ろう・・・』

って、父親に話しかけた直後、背番号3番の選手がレフトスタンドにソロホームランを放ち、球場のヤジが一瞬で歓声に変わりました

『あれ?赤いチームが打つと、おじさん達が怖くなくなる』

そんな事を子供心で感じ取り、周りに合わせる様に赤いチームの応援を始めました

その後、両チームともにチャンスは作るがあと一本が出ず、周りのおじさん達のヤジや罵声が、段々と強くなっていき、8回裏の広島の攻撃の時

『ほらボウズ!もっと大きな声出して応援しないと負けちゃうよ!』

隣のおじさんのイライラが、自分にまで降り掛かってくる様になり、罰ゲームの様に、無理矢理大きな声で応援させられる様になりました

8回の裏、先頭バッターがフォアボールで出塁し、迎えるバッターはセンターを守っていた背番号8番の選手です

『よ~し!ここで一発出れば逆転じゃ!ボウズしっかり応援してな!』

隣のおじさんからのお願いもあり、ここで逆転しなかったら試合後にとんだとばっちりを受ける予感がしたので、その日一番の大きな声で応援しました

そして、ワンボールワンストライクからの3球目

カキーン!

捉えた打球は、センターバックスクリーン方向に高々と上がり、家族も自分も隣のおじさんも、ずっとヤジばっかりだった球場全体の人が一斉に立ち上がり、その歓声に乗って打球はフェンスを越えて外野席に飛び込みました

逆転ツーランホームラン

その時、自分でも何を言ったか、周りが何を言ったのか分からないくらいの興奮と歓声が起こり、あの怖かった隣のおじさんや周りの人達ともみくちゃになって喜びました

あれだけ怖かった野球が、その一振りで感動と興奮に変わった瞬間です


・・・ちょっと、昔話が長くなりましたが、これが自分が野球を始めるきっかけとなり、今でも広島東洋カープを応援し続ける様になった理由です


(2)野球を始める

その後、地元に帰ってから親に

『俺、野球したい』

と言って、地元の少年野球チームに入団、当時サウスポーというのは珍しく監督から『ピッチャーやってみないか?』と言われたんですが、野球のルールはおろか、ボールの握り方やグローブの使い方まで全く知らない自分に、監督は学校の勉強の様に野球についてを熱心に指導してくれて、半年でそれなりに出来る様にしてくれました

『自分も、あの広島の背番号8番みたいになるんだ』

これがその頃の目標で、1年生から野球をしてるチームメイトに追いつく為、チーム練習が終わってからも、夜遅くまで家の前で素振りしたり、壁に的の絵を書いてピッチング練習をしたり、そんな事を毎日毎日してました

しかし、天性のコントロールの無さと地肩が弱いので、結局小学校時代は、点差の離れた試合でのリリーフまでしかなれず、サウスポーなので他は外野の守備ばかりでしたが、キャッチングと足だけは光るものがあったらしく、その頃から1番センターが自分の定位置となりました

それから進んだ中学校でも野球部に入り、やはり1番センターで2年の春からベンチ入り出来るくらいの野球レベルになり、その頃から甲子園というものを意識する様になった記憶があります


(3)高校野球の思い出

入学した高校は、毎年県大会でベスト16前後まで勝ち進むくらいの県立高校で、部員も多い時には100人くらいいたプチ強豪校でした

念願の甲子園に行く為に入った野球部・・・しかし現実は違いました

入部して直ぐに、先輩がバリカンを持ってきてモヒカンや逆モヒカン、電撃ネットワークみたいな髪型にされ、その姿で学校の周りを何周も走らされたり、数10km離れた遠征先の高校から走って帰らされたり、夏の炎天下の中、朝から夕方まで飲まず食わずの球拾いをしたり(当時は『水飲むな!』でした)、部活が終わっても、帰る先輩が見えなくなるまで直立不動で『あしたーあしたー』って挨拶し続けたり・・・地獄でしたね

同じ中学から入った友人は、アルバイトをしてお金を稼いで遊んでいたので『野球する為に野球部に入ったのに、素振りもキャッチボールもほとんどやらせてくれないし、バイト代(お金)も貰えないのに、なんでこんな辛い思いせなアカンの?』って、いつも考えていた記憶があります

そんな感じでイヤイヤですが、何とか練習を続けていって、ようやく2年の春から守備・代走要因としてベンチ入りする事が出来ました

『やっと野球がやれる!』

これが、その時の最初の感想です


(4)突然の出来事

ベンチ入りしたって言っても、基本守備・代走要員なので、練習の大半は外野での遠投キャッチボールと、陸上部みたいなシャトルランが中心でした

また、盗塁の技術という事で、ピッチャーの動きやクセ、相手の守備位置の確認など、周りの状況を常に確認する事を行っていた為、今でもプロ野球観戦時にバッティングよりも守備や走塁の方に目が行く様になってます

ちょっと話が逸れましたが、その頃自宅から高校まで電車で30分ほど掛かる距離を、足腰の強化という事で片道40分かけて自転車で通学していました

そんな守備・代走要因として練習を続けている高校2年の夏休み前の出来事です

いつもの様に母親が作ってくれたお弁当を持って、自転車に乗って学校に向かう途中の信号待ちの時

キキキキー!ガシャン!

後ろから思いっきり突っ込まれ、とっさにかばった左手が前の車と突っ込んできた車の間に挟まり、顔に当たったデッドボールで出る鼻血の倍以上の血が、白い開襟シャツのお腹辺まで赤くなるくらいの交通事故に合いました

左肩の脱臼と左ひじの複雑骨折で全治3か月の大ケガです

その後、早く復帰したいと焦りながらリハビリをしたせいか、今でもそうですが左ひじは真っすぐ伸びなくなり、握力も、左だけ女の子と同じくらいまでしか回復しませんでした

元々、肩が強いわけではなかったので、遠投はセンター定位置から二遊間に返すのがやっとくらいの肩だし、バッティングも押し込む力が弱く、鋭い打球が全く打てず、高校野球では使い物にならない状態でしたが、幸い足は無傷だったので、この先野球を続けるには、足のスペシャリストである代走要因の道しか選択肢がなくなってしまいました

『代走でもいいから、3年の最後の夏の大会までには試合に出たい!』

これが自分の野球人生の最大の目標となり、その大会を『自分だけの甲子園』という位置づけにし、残り1年の高校生活の全てを走塁UPと洞察力の強化に使う事を決心しました

一応その時、右投げも練習して投げれる様にはなったのですが、まあ高校野球では使えないレベルです(もちろんその頃は、漫画のメジャーなんてやってないので、マンガのマネではありません)


(5)自分だけの甲子園

翌年の2月下旬、春の大会前のベンチ入りメンバーの発表の時・・・やはり呼ばれませんでした

うちの高校も3回戦で敗退、同学年のみんなは、進学の事や卒業後の進路について考え始めていたのか練習を休みがちになりましたが、自分は夏の大会に向けてひたすらシャトルランとキャッチボールを行い、通常練習が終わっても、照明が落とされるまで練習する日々が続きました

そして梅雨入り前の練習後、部員全員が集められて夏の大会のベンチ入りメンバー発表がありました

一人、また一人と同級生や上手い下級生の名前が呼ばれて行き、残るベンチ枠はあと2つとなった時

『佐久間』

直ぐに返事が出来ないくらい、めちゃくちゃ驚きました

その夜、家でベンチ入りの話をしたらオカンが赤飯焚いてくれました(笑)


そしていよいよ夏の甲子園出場をかけた地方大会が始まり、背番号17番はベンチで声出し&ベースコーチャーです

1回戦 3-2 勝利 (佐久間 出場なし)

2回戦 5-2 勝利 (佐久間 出場なし)

そして迎えた3回戦、相手投手の変化球に苦しみ、6回までなかなかチャンスを作れずスコアボードには相手チームが初回にあげた2の数字のみ・・・そんな中、迎えた7回表にやっとうちにチャンスが来ました

ワンアウトから8番バッターがフォアボールを選び、9番バッターに代打の下級生が呼ばれた時です

『ファーストランナー代走 佐久間行け!』

監督の言葉があり、1塁ベースに向かった時

『ファーストランナー 佐久間君』

3回戦なんで、ちょっと大きな球場での試合なのでアナウンスが流れました

観客も両校の父兄や同学年の学生たちが、全体で50人くらいしかいないのに、めちゃくちゃ緊張しました(笑)

もー心臓バクバク、今まで練習してた洞察力とか考えられないくらい手に汗かいてた記憶があります

そんなこんなで、牽制を2つか3つもらった時、サードコーチャーから盗塁のサインが出ました

このサインを見た時何故か落ち着いて、相手ピッチャーの動きや、相手二遊間の位置や動きなど、めちゃくちゃ冷静に見て動ける様になりました

そして相手ピッチャーがセットポジションから足を上げ様とした瞬間、セカンドベースが真っすぐ見える体制でスタートしました

我ながらですが、人生で1位か2位になるくらいの最高のスタートが切れたと思います

公式戦、初出場・初盗塁です

その後、代打の下級生は内野フライで動けず、続く1番バッターは内野ゴロでこの回も無得点、結果0-2で3回戦敗退です


これで佐久間の高校野球は終わりました


(6)まとめ

今でも

『あんな事故に巻き込まれなかったら』

とか

『ちゃんとリハビリをしてれば』

なんて思う事もありますが、これでいいんです

人生のチャンスを掴みきれなかったのは残念ですが、最後まで全力を尽くすという気持ちと、精一杯やれる事をやるという行動をした事で、他の人から見たらめちゃくちゃちっさい目標かもしれませんが最後の大会に出れたし、盗塁も決める事が出来ました

なので、自分的にはやり切った感が強いです

こう考えると、高校野球で注目される選手はもちろん、その中から更に選ばれているプロ野球選手って凄いですね

もちろん他のスポーツ選手も、多分想像がつかないくらい努力したり練習したりして、今の立ち位置にいるのだと思うので、やっぱり凄いです

これからオリンピックなどありますので、出場する選手達には、今までの努力の成果を十分に発揮し、ケガなど無い様全力を尽くして頑張って欲しいと思います


最初の旧市民球場での話でも書きましたが、自分は応援の力・スポーツの力というものを信じています

このコロナで暗くなった世の中を、その活躍で元気や勇気を与えて欲しいですし、自分も精一杯応援します

頑張れ!ニッポン! (なんか変なまとめ方)


#高校野球の思い出

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