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茅野市を知ってもっと好きになる『風景を変えた5つのイノベーション②』

 以前、霧ヶ峰の草原が麓の暮らしと密接につながり、長い時間をかけて、いまの姿にまで作りあげられてきたことを紹介しました。

霧ヶ峰に限らず、今見ることのできる茅野市の景観は長い歴史の積み重ねの結果作りあげられたもので、決してずっと同じ状態を保ってきたわけでもありません。記事では茅野市の風景を変えた5つのイノベーションのうち1つ目である『化学肥料の導入』に触れました。今回はその続編です。

さて、第2回では『保温折衷苗代』を紹介します。この育苗法は茅野市のような寒冷地での稲作を大きく変え、日本での稲作適地を北上させることに大きく貢献しました。

 取りあつかう時代は下図にあるように第2次世界大戦前から戦後にかけての変化になります。

 まず、山浦地方は標高1000mほどの高冷地に位置しており、このような地域での稲作の特性として豊凶の差が大きいとうことがあります。

 この地域の歴史的な稲作では、霜が降りなくなる5月中旬になってからようやく苗を育てていました。そのため田植えの時期はどうしても遅くなってしまい、その結果、田植えをしてから稲の生育に必要な十分な期間を得ることができず、長雨などの冷害が起こると収量が著しく低下することがあり、このことが山浦地方での稲作を難しくしていました。

 そんな山浦地方ですが、戦後になると低暖地とそん色なくなるまでに生産力が上昇し(下図)、水稲がこの地方におけるもっとも有力な商品作物になっていったといいます。

このような生産力の向上の最大の要因は、保温折衷苗代もしくは委託苗代による水稲の早植えだと言われています。(下図上段)

 そのため、それまで6月下旬に行っていた田植えを、5月下旬から6月上旬に早めて行うことで8月中旬までに出穂させることは、凶冷に襲われやすい高冷地の稲作に極めて有効でした。ただし、そのためには特殊な育苗法が必要でした。(上図下段)

 山浦地方では篤農家によって昭和初期から温床苗代が試みられていたし、甲府盆地に対する委託苗代も普及していたといいます。

 そんな中、大きく状況を変えたのが軽井沢の荻原豊次氏により考案された保温折衷苗代です。この保温折衷苗代は1943年に考案され、戦後には補助金制度も手伝い、山浦地方に急速に増加して、1949年には全体の46%、その翌年には80%を占めるまでに普及したと言います。その後、育苗法はますます進み、霜よけができるビニール苗代が普及し、今では温室(ビニールハウス)での委託苗代が主流となっています。

 今の茅野市では、全国でもトップクラスの反収を誇り、豊かな実りを安定的に収穫できるようになっています。その背景には、もちろん様々な営農技術の進歩などもありますが、先人の育苗技術を向上させるための努力があったこを知っていただければ幸いです。

今ではビニールハウスで苗を育てている。

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