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【6】産声のない出産

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2018年の死産した時のお話です。
当時のことを
できるだけリアルに書いています。
苦手な方やショックを受けてしまうと
思われる方はご注意下さいね。
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【5】はこちらからお読みいただけます⭐︎↓↓


赤ちゃんの心臓が止まって、
悲しみのどん底にいる時にも、
先生や助産師さんとこれからのことを
話さないといけません。

出産方法、出産前の処置、退院後の火葬、
区役所での手続き、、、


全く耳に入ってこなくて、
夫にできることは全部お願いしました。

でも、産むのは私。

絶望しかない中、
陣痛を起こして痛みに耐えながら
出産するなんて考えられなかった。


「稽留流産の時のような手術は
 できないんですか。」


なんてことを口にしてしまいました。


出産がスムーズにいくように
ラミナリアという棒状のものを
子宮に何本も入れなくてはいけなくて
あまりの痛さと、
なんでこんなことしなきゃいけないんだという
絶望の中で、
されるがままに耐えていました。


この時は
自分で産む力なんて
残っていないように感じたんです。




そして心臓がとまってから2日後。


早朝から分娩室に向かいます。

陣痛促進剤を入れられ、
夫と静かに話しながらその時を待ちます。


赤ちゃんは亡くなってしまった。
私だけしかこの子を産んであげられない。
母親として、私がこの子を産むんだ。



そんな気持ちでした。



しばらくして
中から子宮が押されている感じがあり、
陣痛だと分かりました。


2時間くらい経ち、


先生に
「いきめそうだったらいきんでいいよ」
と言われ、


力を入れて、


何回かいきんで、、、




小さな小さな赤ちゃんが生まれました。




産声はありません。



「女の子ですよ!がんばりましたね。」


と先生が言ってくれました。


この時感じたのは
『安堵感』と
『幸せに似た感情』でした。

赤ちゃんは生きていないのは
分かってはいるし、
頭の片隅に常にあるのだけど、
赤ちゃんが産めた、会えたということに
幸せのようなものを感じたのだと思います。

よかった。

生まれた。

赤ちゃんを生むことができた。



助産師さんが、赤ちゃんを綺麗にしてくれて

「抱っこしますか?」

と聞いてくれました。


私たちは迷うことなく「はい」と答え、
連れてきてもらいました。


19週だったので、
まだ皮膚はできあがっていません。
真っ赤な状態でした。


でも目や鼻、口はしっかり分かり、
指の長い綺麗な手をしていました。


私たちにとって
可愛くて愛しくてたまらない存在。

この時撮った3人の家族写真は
とても死産した夫婦とは思えないような
幸せな笑顔をしています。


初めての対面で
赤ちゃんに寂しい思いをさせたくなかったし、
自然と自分たちの子供を抱くと
よろこびを感じました。


赤ちゃんを抱きながら名前を考えていました。


目の前の赤ちゃんを見ると
すんなりとイメージがわいてきて


「環菜(かんな)」

と名付けました。

循環してまた戻ってきてほしい
菜の花のように
身近で明るく元気な存在でいてほしい


そんな願いとメッセージを込めてつけました。



【生きて産んであげたかった。ごめんね。】

という気持ちと


【本当に愛しい存在。がんばりやさんで
 ずっと強さを見せていてくれた。
 ありがとう。大好きだよ。】


という気持ちが入り交ざっていました。


しばらく
穏やかで温かい時間を過ごしていましたが、
環菜は連れていかれ、


なかなか出てこない胎盤を
出さないといけませんでした。


胎盤が柔らかい時期なので
剥がれにくかったそうです。


先生が子宮に手を入れ
力づくで引っ張り出すという、
出産よりも、
叫び暴れ痛みと闘うことに。


(それでも胎盤は全部取り切れず胎盤遺残をし、
 半月後大変なことになります。)


そして分娩室でやるべきことは全て終わり、
病室に向かいます。

その途中、
すれ違った助産師さんに

「おめでとうございます!」


と言われたんですね。


返す言葉が出てこなくて何も言えませんでした。


病室に帰って、一人になってから
だんだんと現実に戻り、悲しみがわいてきて
どうしようもなく泣いていました。


【これからどうやって
 生きていけばいいのだろう?】


何も希望が見えませんでした。

続きます。

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