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鬱になって色々気づいたので、今後はこんな風に生きてみたい、まとめ

鬱発症して4ヶ月弱、現在までに考えたことをひとまずまとめメモ。
そのうちまた違う結論に変わるかもしれない。

1 鬱は、心の風邪というより心の怪我

鬱はストレスにより、脳が疲労して、セロトニンが極端に少なくなり引き起こる心身症らしい。

精神的な不具合も、身体への不具合と同じように、何かしらのダメージを負っている状態と捉えていいのだろう。

身体の怪我なら擦り傷なのか、骨折なのか、打撲なのか、痛みや治り具合も確認しやすいが、如何せん、脳みそのしかも状態の不具合となると、視覚的に具合を確認できないのが厄介。

鬱になると周りから、
「何に悩んでるの?何が辛いの?」
と言われがち。

しかし、それは過去のことで怪我をした原因であり、今更排除することはできないこと。

もちろん身体の怪我と違って、起こったことを整理することはある程度有効ではある。
人間は過去の出来事を思い出す生き物なので、思い出しただけで、また脳みそが疲弊する。思い出してしまわないよう、または、思い出しても新たな傷がつかないように、嫌な思い出を整理することは、傷口に塩を塗らないようにガーゼを当てるような手当の意味合いはあると思う。

だが、ガーゼであり、すぐさま怪我が消えてなくなるエリクサーではい。整理し終わり、悩まなくなったら、症状が治りました、とはいかないということだ。

「怪我にガーゼを当てたんでしょ?なんでまだ痛いのよ?」と聞く人はいないだろう。
ガーゼをしたところで、治癒には時間がかかる。

だが、精神面の怪我については、なぜかそこがあまりわかってはもらえない。(なるまでは、自分もわかってない人間でした)

「まだ悩んでるの?」
「もう十分休んだんじゃない?」
「落ち込みやすい人なのね」

は、的外れなのだ。

もう悩んではいない、心の整理もついた。
ただ症状が続いているだけ。
みたいな状態が結構あるのだ。

治らないのは、自己治癒がまだ終わってないだけ。
「あなたの身体、自己治癒が遅すぎるわねー」なんて言わないよね、ということ。

2 人間は動物だった

人間は、肉体を持った動物。理性や感情を司る脳もその肉体の一部で、常に血流により酸素をもらい機能している物体。

というのを、鬱になって意識した。

私は感情のコントロールをして、理性的に生きることこそ、人間として生まれた醍醐味。
そう思ってきた。

感情が掻き乱される問題にぶち当たったなら、解決策をとことん考えて、自分の感情を落ち着ければいい。
なんて思っていた。

そういうことではなかった。

感情というのはもっと丁寧に扱うべきものであり、浮かび上がってくるそれを抑制できたらOKというわけではないのだ。

どんな人間にも、負の感情は存在する。

怒り、悲しみ、嫉妬、劣等感、優越感…

現代社会のコンプライアンス重視の風潮は、あまりに厳しすぎるように思う。倫理観云々に重きを置きすぎて、誰もがつい、負の感情に対して厳しくなりすぎてしまう。

倫理的で道徳的でなければ悪だというような、風潮が、特にSNSの中では強いように見える。

負の感情など出さずに、成熟した人間を演じることこそが正しい。それは現代社会における人間像の理想なのかもしれない。
が、案外これは、精神的に負荷がかかる。

私はどちらかというと理性的になりすぎるタイプで、自分自身の中にあるそういった負の感情を抑制しすぎて、むしろ、自分にはそんな感情は存在しないとさえ思っていた。(幼少期からあまり感情的にならない性格だった)

が、負の感情が弱い、はともかく、存在しない、は人類という生物である以上おかしい。
浮かんだことをおそらくコンマ一秒で、無かったことにしているだけではないか?
(もしくは、あまりに全てのことに対して諦めているのか、解離性障害の可能性もあるかもしれない)

感情は、長年人類が進化の過程で身につけてきた、かなり高度で優秀な信号機能。

安全を脅やかす存在へ怒りを持って対処し、群れや自己を守ろうとするため失う悲しみがあり、群れの中で自己の立場を確立するために嫉妬や劣等感、優越感があり、そうやって、自己保存、種の保存のために、感情は発達してきたはず。

しかし、社会が複雑になりすぎたせいで、その感情が時に社会適応を邪魔するようになってしまい、理性をもってそれを抑止するのが当たり前になってしまった。葛藤はストレスだ。

ストレスコーピングは、ある程度のストレスであればうまくいく。
人に愚痴を言い、カラオケで歌い感情を吐露し、旅行して逃避し、ストレッサーを美化してみたりすることもあるかもしれない。

ただ、その中でもどこかで、「こんな負の感情を持ってしまう自分がいけないんだ、認めたくない」がついて回ってしまうと、
実はコーピングがあまり機能してくれない。

最後には、今度からこんな負の感情を持たない自分になろう、いや、そもそも自分はこんな負の感情は持ってない!

と、無意識に、感情を押し込め、整理されないまま溜め込んでいく。

そして、ある日、耐えきれなくなった脳が悲鳴を上げる。

人間は動物で、感情を持つのは当たり前。
それを自分自身で、そうじゃないと切り捨てたしっぺ返しは大きい。

さらに言えば身体もそう。
物理的に存在している、この肉体をもっと意識して丁寧にメンテナンスをすることが、この現代社会においては、重要なのだろう。

なぜなら、人間が作り上げた社会はあまりに自然と乖離していて(今後もおそらくその乖離は広がっていく)、自然状態で必要だった身体機能、精神機能が逆に抑え込まれて、放っておくと病を引き起こしてしまうから。

3 人間は欠陥を孕んだ生き物

2で人間は動物だったと語ったが、ここでは、そんな動物的(感情や欲求)側面と、理性的側面を持つが故に矛盾する人間という生き物の欠陥について語りたい。

理性がこんなに発達してしまった生命は、地球上では今のところ人間しか見当たらない。故にこんなに文明を発展させ、他の生物とは一線を画す存在になっている、

が、

別に生命(エントロピーの法則に逆らう存在)として絶対的に優秀かというと、おそらく、そういうわけでもない。

人間より長寿な生き物はいるし、
人間より環境適応が巧みな生き物もいるし、
人間より個体数が多い生き物もいるし、
人間のように自殺や他殺をする生き物はいない。

あと人間ほど子育てが下手な生き物もいない、言い換える、人間ほど子育てが難解な生き物はいない。

かなり欠陥を抱えている。

個人内においても集団内においても、

理性と感情の矛盾による葛藤が頻発している。

そのことを、自覚して意識的にメンテナンスしていくことが、人間にとって今後もついて回る課題であるような気がする。

故に、こんなにも身体のケア、メンタルのケアに関するビジネスは常に溢れかえっているのだろう。

まとめ 鬱になって気づいたこと

鬱は、精神的な病気で抽象度が高い気がしていた。悩み事があり落ち込んでいるからなると思っていたが、そうではなく、何らかのストレスにより、脳が疲弊して病的な状態になっている物理的な症状で、悩み事が解決するかどうか、より、脳の状態が自己治癒で良くなるのを待つしかないと、わかった。(カウンセリングなどで、脳を傷つきにくくする方法を学ぶことで、再発予防はできる)

ストレスは、人間が実は動物的な感情や欲求を結構強く持ってるのに、それを良しとしない、合理主義的な生き方や環境による、両者の矛盾によって葛藤が起きていることによるものが多い。よって、この矛盾を個人内においても環境においても意識して、意図的にメンタルや身体のケアを丁寧に行うことが、現代社会においてはとても重要。

ということを考えるようになりました。

チャンチャン。

回復したら、身体と心が喜ぶ生き方をしていこうと思う。

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