徳川の謎解き

 「松平元康、徳川家康、樵臆恵最」は先祖の一人。

 「世良田二郎三郎元信」を「徳川家康の影武者」と書いている人がいるがこれは誤り。松平元康は17歳で死亡。「松平元康の代役の徳川家康」が「世良田二郎三郎元信」なのだ。
 松平信康は松平元康の子であり、徳川家康の子ではありません。松平信康は殺害されていません。松平元康は17歳のとき家臣の阿部正豊に殺害された。松平元康は「元信」を名乗っていません。松平元康は「家康」を名乗っていません。松平元康は「徳川」を名乗っていません。
 松平元康の代役の世良田二郎三郎元信が清州同盟の二年後に徳川家康と名乗った。世良田二郎三郎元信は武田晴信と於大の方との間に生まれ、幼名を国松といい、初名は酒井浄慶である。徳川家康こと世良田二郎三郎元信は関ヶ原で島左近の配下から鉄砲で左胸を一回撃たれて落命。夏の陣で後藤基次から槍で刺されて落命したのは樵臆恵最。樵臆恵最は松平広忠の三男であり、松平忠政とは別人。頼宣・頼房・市姫は樵臆恵最の子。鯛の天ぷらを食べて死亡したのは農夫。徳川家康の享年は60代であり、75歳まで生きたというのは嘘。

 松平元信の正室の築山殿(瀬名)を「悪女」とするのは創作(作り話)である。築山殿(瀬名)は夫の松平元康の代役の世良田二郎三郎元信の命令によって腹を二回刺されて死亡。瀬名は先祖の一人。

 「薬を作ったり水泳をしたりしていた家康」は樵臆恵最であった。
 「『徳川家康公 御家訓』を書いた家康」は樵臆恵最であった。
 「西洋の時計を貰った家康」は樵臆恵最であった。
 「小西行長の猶子おたあを側室にしようとした家康」は樵臆恵最であった。