2.小説というもの

小説は小学生の時から変わらず今も読んでいるけれど、その中で小説それ自体に対する自分なりの姿勢が試行錯誤の末に形成されてきている。やっぱり、読書法とか語ってる人はたくさんいるけど、どれも「その人なり」のモノだ、考えれば当たり前だけど。何に関してだって、本質的な考え方というのは自分の時間を割いた試行錯誤の末にしか得られない。今日はそれについて考えたい。

小学生の3年生ぐらいの時から、児童文学に夢中になった。学校の図書館で借りれるだけ借りて、読んで、返して、読んで、、、。あさのあつことか上橋菜穂子とかが印象に残っている。とにかく好奇心に任せるままに読んだから、読み返したりということもしなかった。文脈という感覚も意識できていなかったという部分も大きいだろう。それから5年生くらいから、ストーリーに物足りなくなったので、児童文学をやめて、いろいろ買って読むようになった。分別もつかないから、当時の自分には(今でもそうだけど)全然理解できないものまで手にしていて、それでもわからないとか言いたくないから、必死に解読するような気持ちで読んでいた。そのころから夢中になったのは村上春樹と村上龍だ。1Q84を初めて手に取った時の「なんだこれ」という感動はいまでも覚えている。それから春樹を読むようになって、書店で隣にあったから龍も読むようになって、という感じで夢中になった。昔の文豪の小説とかも読んでみたけどことば遣いが古くて、リアルタイムな感動や興奮というのが得られなくて、いっぱい部屋の本棚に眠ってある。それでもたまに手に取ると以前よりは分かる部分もあって、買っといてよかったなあとそのたびに思う。

高校に入ってからは、小説という小説は新しくはあまり読まず、人文学系の本を読むようになったが、この時に小説を読んでいた経験が非常に役に立った。今まで言語化できていなかったが着実に培われていた感覚が一気に意識の上に表象してくる感覚がなにものにもかえがたくて、小説にはここ半年くらい縁がなかった。言語化の鍛錬ががひと段落したので、こうやって小説というものについて過去を振り返ってかんがえている。

やはり、どこかの地点において、「背伸び」して小説を選ぶ期間が非常に大切であるように思う。言語化の能力を鍛える前に、内面に言語化するのを待つ「情念」を培うためだ。長い間文脈にさして意識することなく小説を消費してきていて、浅い理解のまま数だけを重ねるのを自分自身あまりよいことだと感じていなかったが、今振り返るとその大切さを実感する。

ただのテクストとして、疑似体験として小説は十分に価値を持つと分かったところだが、ここでもう一つの可能性が頭の中に浮かんだ。それは小説の文章として、言語としての秀逸さである。物語としてだけではなく、文章として噛みしめたら旨みがあるんじゃないのか。今回は試しにヘルマンヘッセ『車輪の下』でやってみる。

それからはもうほとんど一言も口をきかず、娘の眼差しをさけた。その代りに、彼女がわきを見るや否や、彼女の顔をじっと見つめた。初めて味わうような快感と不安とがこんがらがったような気持であった。このときに心の中のあるものが裂けて、はるかに蒼く続く海岸のある新しい不思議に魅力のある国が魂の前へ現れたのである。胸の不安と甘い悩ましさとが何を意味するのかまだわからず、それをただぼんやり感ずるのみだったし、また苦痛と快感とのうちいずれが大きいのかわからなかった。けれども、その快感の意味するところのものは、彼の若い愛の力の勝利と、たくましい生命の最初の予感とだった。そして、その苦痛の意味するものは、朝の平和が破られて、彼の魂は二度と見出せない子供の国を去ったことであった。彼の軽舟は、かろうじて最初の難破を逃れて、今新しい嵐の暴力と、待ち受けている深淵と生命を脅かす岩礁の近くへさしかかったが、きわめてりっぱに指導されてきた青年もそれを切り抜けるのに案内者を得るわけにはいかず、みずからの力でそこを切り抜けていかねばならないのである。

「心の中のあるものが裂けて、はるかに蒼く続く海岸のある新しい不思議に魅力のある国が魂の前へあらわれたである。」どうやったらこんな美しい言葉を連ねることができるのだろう。こうやって言語感覚を「感じる」営みは言語内外で役に立つのではないか。とにかく試行錯誤してみる。