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12 子どもが主役の研究授業

校内研究で授業者をしました。
テーマは「児童が主体的に学ぶ授業づくり」です。

昨年度までの学年ブロックの分科会編成が、今年度からは教科の分科会に変わりました。
わたしは自分自身の研究教科算数の分科会です。

無事に授業を終えて「子どもが主役になる研究授業」についての気づきをまとめようと思います。

指導案は「案」でしかない。
今年度、分科会の他に指導案の様式も変わり、A3表裏以内の分量になりました。
限られた紙面の中で、本時案をA41枚でまとめたのですが、その通りにならなかったわけです。
授業者であるわたし自身も、その通りにやろうと思っていないので、当然の結果でした。
子どもが主体的に学ぶには、子どもを主役に考える必要があります。発問を細かく設定して、レールを敷いて、方向付ければ、予定通りの展開になるでしょうが、それは、子どもでなく教師主体です。教師がどれだけ上手に子どもをコントロールするかという授業になります。
レールを敷かないけれど、目的や枠組みを教師が作って(子どもには示さないで)、子どもに自走させます。だから、コントロールは難しい。
ただし、その時間のねらいはあり、集団で学ぶ意味をもたせるために、教師はその都度考えて行動します。
指導案とは違うことを重々承知の上で、微妙にずらしながら授業をしました。

発問は少なくなる。
理由は、先述のとおりです。
わたしの発問を追おうとしていた先生は、ほとんどしゃべらないことに驚いていました。さらに、姿も見失ったそうで、存在を消したいわたしにとっては最高の褒め言葉でした。

笑いが起こる。
情報不足な問題提示をしたので、かくれた部分を出したときに最高に盛り上がりました。
「先生、ずるいー」
「だまされたー」
と、すごい声。そして、笑顔。周りで見ている先生たちの笑い。

また、出たとこ勝負なので、漫才みたいなやりとりがありました。
わたし「昨日、休んだ人もいるから少し説明すると…」
子ども「ああ、昨日はね。目盛りの…」
わたし「あなたも昨日休んでたよね」
子ども「あ、そうか」
まわり (笑)

漫才でも、コントでも、予定調和には限界があり、
思わぬハプニングのように見せる、感じると、笑いがおきます。
だから、授業でも、予定通りだとつまらない。子どもが「やりたい」「おもしろい」と思って主体的になるには、ライブ感が大事だと考えます。

次からは、大人の話です。授業を終えて行われる協議会での気づきです。

協議は子どもの姿でする。
授業は、教師がするものという考え方で話し合うと、子どもが置き去りになります。それでは、子どもが主役にはならない。大きな理想は「今日の授業どうだった?」と、子どもに聞いてみるのが一番かと思いますが、現実的には不可能です。
では、見ている教師が、子どもの姿をしっかり捉えて、その姿で語ることが必要になると考えます。だから、子どもをどう捉えるのかという見取り、児童理解の力が試されます。
授業後の協議では、教師が何をしたのかが中心になりやすいものですが、子どものどんな姿を目指して、教師が何をして、子どもがどうなった・何をしたのかという姿について話し合いたいものです。

正解がないから話し合える。
教師という職業は、一般的な職業とはちがい、学校の中での上司は基本的に校長・副校長(教頭)となり、その他は同じ立場です。近年、主任教諭や主幹教諭(指導教諭)なるものができて、中間管理職のような職層はあるものの、授業をする者をプレーヤーとすれば、みな同じです。
ただし、教師としての経験年数、人生経験(年齢)、社会人経験(その他の職業での経験)により、どうしても同じ立場でも上下関係ができがちです。
教師がすること(教える・指導)が話のメインになると、経験や年齢により差がでますが、子どもを主体に考える(学ぶ・伴走)ことを話し合うと関係がなくなると考えます。
子どもが主役の授業をしているという意味での経験や、感覚・センスは、自分軸でなく相手(子ども)軸なので、単純にHow toでまとめられないもの。以前はうまくいった方法はあまり使えないのです。
だから、正解がありません。そうなると、もともとの同じ立場であるままに話し合えると思います。

そこに、人間関係や、べき思考、空気を読む、嫌われたくないというマインドが働くと、難しくなるのですが…。

以上、わたしが今回研究授業の授業者をやってみた気付きでした。今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。感謝です!