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再読『バックストローク』(小川洋子)③ ―—最後に灯される光―—

〈目次〉
10 弟の悲劇とは何か
11 「わたし」の悲劇とは何か
12 最後に灯される光
13 終わりに

10 弟の悲劇とは何か
 弟が自死した理由について、前回、私は彼が「精神的にも肉体的にも追いつめられていたから」だと述べました。
 しかし、本当のところはわかりません。
 弟自身も何が何だかわからなくなって自死したのかもしれないからです。
 そもそも、ある人の自死の理由を他人が訳知り顔で、簡約に説明するのはいかがなものか。
 頭脳明晰な芥川龍之介でさえ、「ぼんやりとした不安」を抱えて自殺したと言われます。
 一方で、実は家族の問題を抱えていたからだとか、精神障害があったからだという妙に簡明な解説がなされることもあります。
 いろいろな説がありますが、芥川の自殺の真相は「藪の中」なのでしょう。
 ただ、弟の場合、「周りの誰にも理解されなかったから」という要因は大きかったと思います。
 弟は、母にも父にも、そして生きているうちは姉にも理解されませんでした。
 唯一お手伝いさんだけは理解してくれていたと思うのですが、年齢差のためか、立場の隔たりがあったからか、二人の間に心の交流があったようには見えません。

 それでも、弟は姉にだけは「接近」しようとしています。
 弟はいつも隅にいたのだから、実際に近づいていったのは姉の方からでしょうが、その姉にいろいろな知識を教えていますから、心理的には弟から姉に接近しようとしていたと言えるでしょう。
 これはなぜでしょう。
 もちろん、唯一の兄弟として、年の近い仲間として、姉にわかってもらいたかった、という気持ちが弟にはあったことでしょう。〈注⑬〉
 しかし、それだけではなかったと思われます。

 実は、弟には姉にしか見せない“顔”がありました。
 その“顔”は、物知りな弟が姉にその知識を話す時に表れます。
 弟はこの時、姉にユーモアを込めて話していますが、それはつまり、弟は姉にだけ“笑顔”を見せていたということです。
 母に抱き締められても無表情だった弟が、です。
 でも、どうして?
 姉を喜ばせたいから?
 しかし、姉は弟の話に感心はしても、あまり喜んでいなかったように見えます。
 「どれもこれも大して役に立ちそうもない事柄ばかりだった」と語っているぐらいですから。
 では、なぜ弟は姉に役にも立たない話をし続けたのでしょうか。

 それは、弟が姉を救おうとしていたからではないかと私は思うのです。
 姉の何を救わねばならないのでしょうか。
 『バックストローク』は姉の語る物語なので見えにくいのですが、実はこの姉も父母の「被害者」です。
 前述のように、姉は二歳の時から「今」に至るまで両親に愛されることはありませんでした。
 姉はきっと心の奥に寂しさや悲しみを抱えていたことでしょう。
 その姉の気持ちに、弟は幼い頃から感づいていたのではないでしょうか、なぜなら、弟は利発で、感受性の豊かな子であったから。〈注⑭〉
 母に「溺愛」されながら「本物の愛」を知らなかった弟は、母に「軽視」されたために「本物の愛」に飢えていた姉の気持ちが、幼いながら理解できたのでしょう。
 弟が姉にいろいろな知識を披露したのは、その話をすることで姉を慰めようとしていたからだと思われるのです。

 このことは、幻影の弟が背泳ぎをするシーンにおいても示唆されます。
 その場面で姉は、「弟は背泳ぎするだけで、わたしの求めるものを何でも差し出すことができた」と語っています。
 これは姉が、少なくとも潜在的には自分が弟に慰められてきたことに気づいていたということではありませんか?
 残念ながら、弟が生きている間、姉は弟の優しさに自分の優しさで応えようとはしなかったようですが。
 これは弟の優しさの悲劇であると同時に、姉の悲劇でもありますが、そのことは次節でお話しするとして、その前にもう一つ、弟の悲劇についてお話ししておかねばなりません。

 弟は自分の前世について次のように話しました、「ひいひいおばあちゃんも生まれていない昔、僕は羊飼いだった。ある日、洞窟に迷い込み、人食いコウモリに身体中を食いちぎられて死んでしまった。それで、今度はママのお腹に入るため洞窟の中を走り、ぎりぎり間に合った」と。
 これは弟の“妄想”ではありますが、ここには三つの問題があります。
 一つ目は、時間的な矛盾です。
 羊飼いであったのは「ひいひいおばあちゃんも生まれていない昔」のことなのに、引き続いて「ママのお腹」から生まれようとします。
 二つ目は、生死の矛盾です。
 「人食いコウモリに身体中を食いちぎられて死んでしまった」のに、洞窟の中を走っています。
 三つ目は、羊飼いの問題です。
 前世の弟は、なぜ羊飼いだったのでしょうか。

 ……「おばあちゃんも、ひいおばあちゃんも、ひいひいおばあちゃんも生まれていない昔」とは、太古の昔を表していると考えられます。
 「人食いコウモリに食いちぎられて死んだのに、洞窟の中を走って、ママのお腹にたどり着いた」のは、弟が生き死にを繰り返しているということでしょう。
 弟が前世で羊飼いであったのは……。
 ここは難解な部分ですが、「誰かに雇われ、土地に縛られ、一生を羊を追いかけて生きる」というのが羊飼いであるのなら、それは「母に従い、プールに縛られ、一生を背泳ぎに生きる」弟の姿と重なります。
 とすれば、弟は現世においても“羊飼い”として生まれ変わったということになりはしませんか?
 要するに、弟の“妄想”は永劫回帰する弟の悲劇的な生のあり方の寓話だということです。
 弟は生まれ変わり死に変わりするたびに、母というコウモリに出会い、最後には食いちぎられねばならない……。
 だから姉は、弟がまた母のお腹を選んでしまったことに対して、「弟が死ぬ光景より残酷だった」と感じたのでしょう。〈注⑮〉

〈注⑬〉ここで「姉にわかってもらいたかった」というのは、「やりたくもない背泳ぎをさせられている気持ちを姉にわかってほしい」というような明確なものではありません。前作で述べたように、「自分でもわからないもやもやとした気持ち」、「言語化できないゆえの苦しみ」であると私は考えています。
〈注⑭〉弟の利発さは、彼が物知りであったことや水泳の飲み込みが早かったことに表れています。「ゼロと無限の定義」なんて、利口な子でなければ興味も持たないでしょう。感受性ですが、無表情な弟の描写(母に抱き締められた時の様子や、母が庭にプールを作ると言った時に“背を向けて”いたことなど)が印象に残るので、弟は感受性に乏しい子だったと見られるかもしれません。しかし、前世の話を生き生きと語ったり、クラッシック音楽に関心を持っていたりするところからは、弟の感受性の豊かさが見えます。母の前で弟が「無表情」に見えるのは、彼がその場の空気や母の期待に気づいていたからで、逆説的に言えば、感受性が豊かであったからこそ無表情だったのです。
〈注⑮〉このことは姉が弟のことを理解していたということには繋がりません。姉は母のお腹を目指して洞窟の中を走る弟に残酷な運命を感じ取っていますが、それはただ弟の姿が(想像世界の)現象として明瞭に見えたからです。「羊飼いというのも、弟に似合っていた。羊飼いなら草原を走り回っているだけでいい」という姉の言葉を読むと、弟の運命の本質までは見抜けていなかったようです。

11 「わたし」の悲劇とは何か
 姉は弟が自死したことを受け入れることができず、幻影の弟を追い求めていた、と私は述べました。
 弟の苦しみを理解していなかった自分に打ちのめされ、その衝撃が弟の幻影を生み出したのではないかと思われます。
 弟が亡くなった時、姉は十七歳でした。
 全員がそうだとは言いませんが、まだ自分のことしか見えない年頃です。
 その年頃の若者はみな愚かだ、エゴイスティックだ、などと言いたいのではありません。
 例えば、他人から承認されない経験は大人にとってもつらいものですが、一般的に言って、大人はまだしも広い世界に生きていますので、そのつらさを乗り越えることができます。
 しかし、これも一般論ですが、思春期までは家族や学校以外の世界との接触が限られていることが多いので、自分の経験を広い視野、高い視点から見つめることに不慣れです。
 「自分にしか関心が持てないこと」と「自分を持て余すこと」とは同じ盾の両面です。
 子供時代の姉が、寂しい自分や弟に冷たい自分にてこずったとしても仕方がありません。
 あるアメリカの思想家が、「人は成長すればするほど自己中心性から離れる」と語っていました。
 十七歳の「わたし」も「自己中心性から離れる道筋」を歩んでいるだけです。
 姉と弟の関係を考える場合にも、このような視点が必要でしょう。

 姉は弟に冷たかったが、弟は姉のことを慕っていただけでなく、子供心にも姉の寂しさや悲しみを理解していたように見えます。
 弟が二人の関係の非対称性をどこまで自覚していたか、それはよくわかりません。
 まだ子供だから自分に対する姉の理解を一途に信じていたようでもありますし、結局は自死を選択したのだから、姉に理解されることも諦めていたかもしれません。
 一方、姉が自分に対する弟の理解や思いやりに気づいていたようには思えません。
 これは弟の悲劇です。
 しかし、同時に姉の悲劇でもあります。
 弟が姉に優しかったほどには、姉は弟に優しくしたことがありません。
 与えるのは常に弟からで、しかも姉は与えられることによって救われていながら、そのことに無自覚です。
 自分の気持ちを敏感に受け止めてくれた弟に対し姉は鈍感であり、それは姉の悲劇だと言えます。

 ただこのようなあり方は、姉に限りません。
 私たちも他人の冷たさにはすぐに反応しますが、誰かの優しさに接しても往々にして無頓着です。
 これは姉とよく似ています。
 つまり、姉の「わたし」は私たちのことです。
 小説『バックストローク』は、「私たちの物語」だったのです。

12 最後に灯される光
 では、『バックストローク』は悲劇の物語なのでしょうか。
 全編悲劇の彩りを帯びていますが、私はやはり希望の物語だと思います。
 小説の冒頭と結末を振り返ってみましょう。
 そこには、東欧の小さな町にあるナチス・ドイツ時代の強制収容所を訪れた姉が描かれています。
 姉はそこで廃墟となったプールを目にし、気分を悪くして蹲ってしまいます。
 通訳兼ガイドの青年が介抱してくれますが、背中に触れる掌に姉は弟を感じ取りました。
 以前お話ししたとおり、最後に処刑場に向かおうとする姉の姿には「自分への断罪」と「弟への懺悔」の気持ちが表れています。
 その解釈が間違っていたとは思いませんが、どうやら私はもっと大事なことを見落としていたようです。

 小説の結びの一文に注目しましょう。
 ――「いいえ、いいのよ。どうもありがとう。処刑場へ行きましょう」わたしは立ち上がった。青年が肩を抱いてくれた。――
 最後に青年は、処刑場に向かおうとする姉の肩を抱いてくれました。
 これは、この小説が姉の「断罪」や「懺悔」だけで終わる物語ではないことを示しています。
 では、何を表そうとしたのでしょう。
 青年に弟を感じた場面をもう一度見てみましょう。
 ――プールはそこにじっと横たわっていた。時折彼はわたしの表情をうかがい、元気づけるように微笑んだ。背中に触れる掌は大きく、柔らかかった。ふとそれが、弟の手のような気がした。――
 「プール」と「笑顔」と「大きくて柔らかな掌」、姉はこれらから弟を連想しています。
 「プール」とは弟の生きた世界、「笑顔」とは弟の心、そして「大きくて柔らかな掌」とは弟の身体です。
 つまりこの時、姉は弟の生きた世界や身体とともに、弟の心も思い出しているのです。
 「笑顔」に表された弟の心、それは姉への慰めであり、励ましです。
 この時、姉は、単に弟の孤独や苦しみを理解しただけでなく、初めて「弟が自分に与えようとしていた優しさ」にも気づいたのではないかと私には思われるのです。
 姉が心に抱いたのは「自分への断罪」や「弟への懺悔」だけではありません。
 「弟への感謝」の気持ちも抱いたのだと思われるのです。
 そうでなければ、青年が姉の肩を抱くはずがありません。
 もし、「断罪」や「懺悔」といった負の感情を抱いただけの姉の肩を抱いたのなら、弟は姉を「許した」ことになります。
 高い立場から人を審判するような、そんな厳しい人で弟はあったでしょうか。
 弟はもっと優しい人であったはずです。
 「弟への感謝」の気持ちを抱いた姉に、弟もきっと感謝したのでしょう。
 だから青年は姉の肩を優しく抱いたのです。
 この時、姉と弟は初めてほんとうに互いを理解しました。
 小説『バックストローク』は、結末において人間の相互理解を語ったのです。
 どんなに悲劇的であっても、必ず希望があることを示したのです。

13 終わりに
 本考察の冒頭で、私は小説『バックストローク』の「テーマ」を語りたいと申しました。
 ただ、「テーマを語る」なんておこがましい言い方ですし、「私の解釈が正解だ」というつもりも毛頭ありません。〈注⑯〉〈注⑰〉
 小説に限らないことですが、最低限の鑑賞の知識や技術は必要にせよ、芸術作品は人それぞれがそれぞれの方法で鑑賞すればいいものです。
 それに、何かを「正解」だとするのは「解釈の可能性」を否定することになります。
 今回の考察が皆さんの参考になれば幸いです。

 先日たまたま小川洋子さんのインタビュー動画を見ていたところ、小川さんが次のようにおっしゃっていました。〈注⑱〉
 (書きたいことを問われて)「だんだん書きたいことが社会の隅の隅の方に寄っていく。
 社会からはみ出して、今にも暗闇の中に堕ちそうな寸前の人とか、あるいはすでに死んでしまっていて、何も言い残すことがないまま世を去っていった無数の死者たちの声を書き記しておきたいという秘書係的なものが、作家という立場じゃないかと思うようになりましたね。」
 (読書の魅力について問われて)「本を読むことは『自分との対話』なんですよね。それに浸れるのは、たぶん『本を読む』以外にはない。
 自分で自分の声を聞いて、自分の心の許容量を広げて、そうすることによって他者を受け入れることがようやくできる。
 自分の心を広く豊かにするためには、本を読んで、本の中に出てくる登場人物たち、無言の登場人物たちと会話することが大事だなと思います。」
 ……『バックストローク』の弟と姉について語っておられるのではないかと思われるようなお答えでした。

 以上です。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

〈注⑯〉小川洋子さん自身が次のように語っておられるそうです。「テーマなどというものは最初から存在していないということです。主題が何か、について私は一切考えていないのです。」「言葉で一行で表現できてしまうなら、別に小説にする必要はない。ここが小説の背負っている難しい矛盾ですが、言葉にできないものを書いているのが小説ではないかと思うのです。」「テーマは後から読んだ人が勝手にそれぞれ感じたり、文芸評論家の方が論じてくださるものであって、自ら書いた本人がプラカードに書いて掲げ持つものではないと考えております。」
〈注⑰〉なお、小説の最後に登場する「弟からの手紙」ですが、「謎解き『バックストローク』③」で、私は「弟は一カ月に一度くらい姉の心に蘇り、姉は心の中で弟の鎮魂をしていた」と解釈しました。この解釈については変更する必要はないと考えています。姉は弟の死を知りつつ、彼を「弟の理想世界」に蘇らせたということです。
〈注⑱〉ユーチューブ動画「『無数の死者たちの秘書係的な作家になりたい』芥川賞・芸術院賞受賞 小川洋子さん語る “読書の意味”」

〈初出〉YouTube 音羽居士「再読『バックストローク』①~③」2023年10月 一部改

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