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謎解き『舞姫』③(森鷗外)――手記はなぜセイゴンで書かれたのか――

(2) 手記はなぜセイゴンで書かれたのか
 太田豊太郎の手記は、なぜ帰国の船が立ち寄ったセイゴン(サイゴン)で書かれたのでしょうか。
 欧州なり、日本なりで書いたのならともかく、なぜセイゴンという「中途半端?」な地で書いたのか。
 このことの意味についても、もっと明確にされねばならないでしょう。

 一つの説は、「豊太郎はセイゴンでエリスに最終的な訣別を告げた」というものです。
 それは、欧州から日本に帰国する航路の最後の立ち寄り地がセイゴンであったからだといいます。
 もし豊太郎が翻意して、エリスのもとへ戻ろうとするなら、セイゴンが最後のチャンスになるというわけです。
 セイゴンには欧州へ向かう船があります。
 エリスを捨てることができないのなら、豊太郎はここでその船に乗り換えることができます。
 しかし、豊太郎はそうしませんでした。
 つまり、豊太郎はここセイゴンでエリスに最終的な訣別を告げたというのです。

 ……本当でしょうか?
 この説に対しては、いくつもの反論があります。
 まず、エリスのもとへ戻るのであれば、日本帰国後も可能であるということです。
 日本で旅費や生活費を工面し、時を見計らってベルリンに戻ることもできます。
 何もセイゴンが最後のチャンスだというわけではありません。
 次に、セイゴンでエリスを捨てる決意を固めたというのですが、その決意はブリンヂイシイの港を出てからの豊太郎の心の動きと矛盾しているように見えます。
 彼は船中、内臓がひっくり返る程の苦しみを味わい、それは今でも「限りなき懐旧の情」となって一日に何度も豊太郎を苦しめている、と言います。
 そして、「ああ、どうすればこの恨みを消すことができようか」と悲嘆します。
 この言葉は疑問文ではありますが、ほとんど反語文ではないかと思われるほどの強い気持ちを表しています。
 このような激しい苦痛を吐露した後なのに、「セイゴンについたから、もうエリスのことはきれいさっぱり諦めよう」などとなるものでしょうか。
 それにセイゴンでエリスを捨てることを決意したのなら、責任転嫁と自己弁護に満ちたようなこの手記を残すことによって、いよいよ豊太郎は「クズ」確定ということになりはしませんか。
 黙っていたなら、まだしもあれこれ言われずに済むものを、何の必要があってわざわざ自分の評価を下落させ、世間から集中砲火を浴びるような手記を書き残したのでしょうか。
 これはセイゴンであろうがどこであろうが、ともかくこのような手記を書き残したこと自体に対する疑問ですが、それでも「エリスを捨て日本に戻って再起を図る」というのなら、いつまでもうじうじと引きずらず、ヨーロッパを出た段階でスパッと気持ちを入れ換えたほうが潔いというものです。
 日本を目の前にするまで決意が定まらなかったというなら、結局「弱き心」のままの豊太郎であり、そんな彼のままならその決意も信用できません。

 もう一つの説は、『舞姫』が執筆された当時の時代背景にその理由を探るものです。
 例えば、セイゴンが日本の官僚にとってアジアの植民地化の由々しさを代弁するものであり、帰朝し官吏としての再起を図る豊太郎にとっては自己確認を行う最適の場所であったというような考えです。
 豊太郎が帰国したのは明治二十二年ですが、この頃の日本は条約改正や憲法発布、国会開設など国家的課題が山積しており、エリートたちの責任感や使命感にも並々ならぬものがあったことでしょう。
 豊太郎も国家に求められている自己の責務を自覚したから、エリスを捨てたというわけです。

 このような観点の重要性は私にもわかります。
 しかし、『舞姫』の場合は、何かとってつけたような理由に感じます。
 この観点は、豊太郎の行為や判断の正否を彼の立場に求めています。
 これは、豊太郎は「上級国民」だったからエリスを捨てたのも仕方がなかったのだ、という意見になりはしませんか。
 豊太郎がもし私費留学生で、ドイツで同じような行為と判断をしたなら、どうなるのでしょう。
 国費留学生の豊太郎は許されるが、私費留学生の豊太郎は許されないということになるのでしょうか。
 私はこのような考えには与しません。
 たとえ歴史的背景としてそうであったとしても、人間を立場で差別して評価することはできません。

 それに、セイゴンで手記を書いた理由がエリートとしての自己の再認識にあるのだとしたら、エリスは近代国家建設の犠牲となったということになります。
 このような犠牲は近代のあちらこちらで見られたものなのかもしれませんが、何とも後味の悪い解釈です。
 このような観点は、結局豊太郎の自己正当化に加担しているだけにならないでしょうか。
 加えて、豊太郎が最終的にエリート官僚として生きることを決意したというのなら、自分は「所動的、器械的の人物」に過ぎなかったという彼の反省は、結局解決されないままで終わったということです。
 また、「まことの我」も結局「きのふまでの我ならぬ我」に敗北し、再び「奥深く潜」んだままで終わってしまったということです。
 『舞姫』のテーマを語るとき、よく「近代的自我の覚醒」という言葉が使われますが、この解釈を採れば、結局、豊太郎の自我は覚醒しなかったということになります。
 このように『舞姫』を読むことが、ほんとうに正しいのでしょうか。

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