見出し画像

再読『バックストローク』(小川洋子)② ――幻影の弟を求める「わたし」――

〈目次〉
6 十五歳の誕生日を迎えた頃の弟
7 幻影の弟を求める「わたし」
8 自宅のプールは誰が管理したのか
9 弟と訣別する「わたし」

6 十五歳の誕生日を迎えた頃の弟
 なぜ弟は十五歳の誕生日に自死してしまったのでしょうか。
 それは、弟が精神的にも肉体的にも追いつめられていたからです。
 弟の精神は、『スポーツ精神コントロール法』によって母に完全にコントロールされていました。
 十四歳で背泳ぎの中学新記録を出しているくらいだから、弟が肉体を酷使していなかったはずがありません。
 決定的なのは、やはりオリンピックの強化選手に選ばれたことでしょう。
 多感な年ごろの弟には、そして小さい頃から水泳だけという狭い世界に閉じ込められてきた弟には、この後の自分の人生が「背泳ぎ一色」で染められてしまったように見えたのではないでしょうか。
 もう“絶対に”背泳ぎから逃れられないのです。
 一週間後にはアメリカに発たねばなりません。
 母もアメリカに付いて来ることでしょう。
 でも、そこには姉もお手伝いさんもいません。

 姉は、弟のリクエストに従って、ブラームスの交響曲第1番のレコードをプレゼントしました。
 姉はその曲の出だしに、ひどく淋しげで不吉な響きを感じ取ります。
 これはもちろん弟の心の反映であり、これから起こることの暗示です。〈注④〉
 「もう逃げ場はない」……弟はそう思いつめたのでしょう。
 幻影の弟の左腕が挙げたきりになっているのは、追いつめられた弟の象徴です。〈注⑤〉
 闇雲に手を伸ばして何かをつかみ取ろうとしても、決して届くことはない……。
 それが弟であったのです。

〈注④〉弟は姉にブラームスの交響曲第1番のレコードをリクエストすることで、姉への別れを告げた可能性が高いと私は思います。理由は2つ、(1)前シリーズでも述べたことですが、この曲には男女の好みのすれ違い(姉と弟の思いのすれ違い)が含意されていること、(2)弟は姉に対して常に与える側に立っており、姉が弟に何かを与えるのは(正しくは、自分に何かを与えてくれるよう弟が姉にお願いするのは)後にも先にもこの時だけであることです。ただ、もしそうだとすると、弟は自死する前に姉に「兄弟間に気持ちのすれ違いがあったことを示唆した」という解釈も可能になります。弟は姉に対する“恨み”のような激しい感情からではなく、悲しみや寂しさのような“幽けき気持ち”からこの曲をリクエストしたのではないでしょうか。
〈注⑤〉挙げたきりになったのは、なぜ左腕だったのでしょうか。それは、多くの人と同じく、弟の利き腕が右腕だったからだと思います。利き腕とは、何かをする時に主に使う腕のことです。自分の力を発揮しようと思えば、人はふつう利き腕を使います。弟は本来の自分の力の源泉ではない左腕を使って、自分の求めるものではない何かをつかみ取ろうと必死になっていました。そして身動き取れなくなったのが、左腕が挙がったままの姿であるわけです。

7 幻影の弟を求める「わたし」
 十五歳の誕生日の翌日の様子について、もう一度見てみましょう。
 あり得ないことが多すぎませんか?
 弟は自分の状態を、何事もなかったかのように受け入れています。
 しかも、何の不自由もなく朝食を食べています。
 母や姉にいろいろ問われても、返事もしません。
 母の様子も異常です。
 弟の左腕を力任せに引っ張っていますが、息子の左腕が挙がったままになったからといって、母親がそんなことをするでしょうか。
 弟にも母にももともと一風変わったところがあるので、つい当たり前のように読み過ごしてしまうかもしれませんが、尋常ではありません。
 しかし、弟を幻影だと捉えれば、何事もなかったかのように振る舞う弟の姿も異常だとは言えません。
 母の振る舞いも、息子の自死に狂乱した母の姿の投影、あるいは歪曲された姉の認知だと捉えれば理解できます。
 母は息をしない息子に、「どうして黙ってるの。いい加減にして。お願いだから、元通りの姿に戻って」と叫んだことでしょう。
 弟の左腕を力任せに引っ張る姿は、変わり果てた息子の身体に取りすがる母の狂乱を表しているように見えます。
 父の姿も同じです。
 父が一言「放っておきなさい」と言ったのは、自死した弟を目の前にしてもなお息子について語ることのない、非情な父の表徴です。
 これらは、十七歳という不安定な年ごろの姉の目に映った父母の実際を、逃避的に描写したものです。
 姉は起きた事柄や目の前の光景を「抑圧」したのだろうと思われます。
 心理学でいう「抑圧」とは、不快な観念や衝動を無意識のうちに押さえつけ、自我の安定を図ろうとする精神作用のことを言います。
 姉は弟の自死を受容することができなかったのです。
 弟の死後も、あたかもそれがなかったかのように合理化し、すべてを眺めようとしたのではないか…。
 先に私は、姉の心には「弟に対する嫉妬や憎悪」の感情があると述べました。
 しかし、まさか姉が「弟の現実の死」を望んでいたとは思えません。
 「少なくとも弟のおかげで…わたしたち家族はどうにか絆を保っていた。弟の背泳ぎ…がすべての源であり、唯一の救いだった」と考える姉が、弟の死に途方もない衝撃を受けなかったはずがありません。

 その後の弟の姿も、姉の「合理化」の表れです。
 「何人もの精神科医、カウンセラー、心理学の博士、宗教家が弟と面会し」ますが、おそらく母一人が彼らと面会しただけでしょう。
 続けて、「母は例の占い師のところへ、毎日足を運んだ。入院もした。転地療養もした。でも駄目だった」とありますが、入院したのも転地療養したのも母一人であったと読むことができます。
 ――母はヒステリーを起こし、絶望し、鬱状態に陥った。『あごを引いて。あごを引いて』と、一日中独り言をつぶやいた。
 どんどん占いの世界にのめり込んでゆき、呪いを恐れ、方角が悪いからと言っては応接室の半分をつぶして浴室にしたり、家中の壁紙を毎月のラッキーカラーに合わせて張り替えたりした。 ――
 この異様な場面も、息子を失った母の狂気のなせる業だと考えれば不自然ではありません。

 弟の様子も見てみましょう。
 弟はひと時たりとも左腕を降ろさず、そのままの状態でお風呂に入り、本も読み、服も着替えました。
 自分の部屋で右手だけでレコードを取り出し、スプレーをかけ、針を落としています。
 この時、わざわざ窓を五センチほど開けています。
 さらに弟は父の手伝いをし、姉のためにココアを淹れ、ホットケーキも焼きました。〈注⑥〉
 しかし、もともと弟は薄暗い閉所が好きだったのではないですか?
 しかも、左腕が挙がってからの弟は「もっと隅へ、もっと隅へと引きこもるようになった」はずです。
 なぜ窓を開けた部屋で寛いだり、父の部屋で手伝いをしたり、台所で調理ができたりしたのでしょう。
 弟についての説明と描写とが“矛盾”しています。
 姉の語りの全てを真実だと素直に受け取ることはできません。
 十五歳の誕生日以降の弟は皆、姉の幻覚です。
 弟が焼いたというホットケーキも幻影だから、姉は食べもしないのに「おいしいわ」と言ったのです。
 フォークをくわえて恥ずかしそうにうなずく弟を見て、姉は「これからもずっと長く、弟がどこか遠くに行ってしまったとしても、ずっと覚えておきたいと思う匂いだった」と言います。
 「どこか遠くに行く」とは「死」を暗示する言葉ですが、弟に死の兆候が全くないのにこんなことを思うでしょうか。
 例えば、健康な妻が自分のためにおいしい料理を作ってくれた時、「たとえ妻がどこか遠くに行ってしまったとしても、この匂いだけはずっと覚えておきたい」などと思うでしょうか。
 「味」と言わずに「匂い」と言ったところも、ホットケーキが幻であったことの証左です。
 ほんとうは弟の不在に気づいていながら、それを受け入れることのできない姉の、平衡を失った脳裡に映し出された妄想がこのような不可解な語りを紡ぎ出したのでしょう。
 ……以上は突飛で不合理な解釈でしょうか。
 しかし、人の左腕が挙がったままになったこと、そして弟がその運命をすんなりと受け入れ、右腕だけで何不自由なく過ごし、突然活動的にもなったことを「事実」として受け止めるほうが、よほど突飛で不合理だと言えませんか?

〈注⑥〉弟と父が協力して骨董品を扱う情景は、姉が心に抱く「家族の理想像」の表出だと私は考えています。

8 自宅のプールは誰が管理したのか
 それでは自宅のプールは誰が管理したのでしょう。
 「それでもプールの水だけは抜かれなかった。入る人などいないのに、プールの水はいつもあふれるほどに満ちていた」と描かれています。
 「プールの水は抜かれなかった」と受身形で書かれているから、前作で私は「姉がプールの管理に関わっていたのではなく、弟がプールの水を入れ替え、右腕だけで掃除をしていた」と考えました。
 しかし、弟は十五歳で自死したのですから、この考えも改めねばなりません。
 プールの光景も姉の“妄想”なのでしょうか。
 いいえ、私はやはり姉がほんとうにプールの掃除をしていたのだろうと考えています。
 姉は、何かに駆り立てられるようにしてプールを掃除し、その水を入れ換えていた、あたかも弟がまだ生きていて家族とともにいるかのように世界をとらえ、振る舞っていた、と思うのです。
 生きていた頃の弟の記憶を失わぬため……、いや、今も生きていると信じる弟の存在の根拠を残し続けるために、姉はそうしていたと思うのです。
 何かに駆り立てられていたから、「プールの水は抜かれなかった」と、まるで他人事のように言ったのでしょう。

 この解釈の証拠は小説の冒頭にありました。
 姉はいろいろな場所でプールを見つけると、つい立ち止まってしまうと言います。
 なぜでしょう。
 それは、プールが弟の思い出が詰まった場所であるからです。
 でも、それだけでしょうか。
 姉がプールの「サイズ、水温、深さ、手入れの具合、底の感触から濾過装置の性能にいたるまで、あらゆる点について観察」したのはなぜですか?
 それは、姉自身が自宅のプールを熱心に管理していたからではありませんか?
 そうでなければ、自分が入りもしないプールの水温から濾過装置の性能に至るまで気になるはずがありません。
 「そんなことをしても何の役にも立たないと分かっていながら、どうしても自分を止められない」というのも、姉が弟の幻影に囚われていたからでしょう。
 後にも姉は、「それ(プールの水)が涸れてしまう時、わたしたちは最後の救いを失うことになるとみんな知っていた」と述べています。
 狂った母とアル中の父と姉自身を家族として辛うじて結びつけているものは、もはや弟の泳いでいたプールしかありません。〈注⑦〉
 きれいな水をあふれるほどに湛え、ゴミ一つ浮いていないプールがありさえすれば、いつかまた弟がひょっこり現れて、また美しいフォームで泳いでくれるかもしれないではありませんか。
 これも突飛な考えでしょうか?
 子供を亡くした親が子供部屋をそのままに残したりするのはなぜでしょう。
 それは、いつかまたその部屋に子供がひょっこり現れてくれるのではないかという、はかなくも悲しい期待を親が持っているからではないですか?
 プールの水を美しく保っていたからこそ、姉も弟の背泳ぎする姿をもう一度見ることができたのです、たとえ幻影であったとしても。〈注⑧〉
 弟の死後も、姉は自宅のプールの「あらゆる点について」気を配って管理していたのです。
 では、どうしてそのプールの水は最後には枯れてしまったのでしょうか。

〈注⑦〉作中、「少なくとも弟のおかげで、あの時代、わたしたち家族はどうにか絆を保っていた。弟の背泳ぎ、それがすべての源であり、唯一の救いだった」と書かれています。また、結末部において、「水を抜いたプールは、止めようもなくどんどん衰えていった。コンクリートはすぐにひび割れ、排水溝は錆びつき、ゴミの吹き溜まりとなった。それはわたしたちの家族の記憶の残骸として、長くそこにとどまった」とも描かれています。弟が亡くなった後、水を湛えたプールが辛うじて「家族の絆」としての役割を果たしていたのでしょう。プールが水を失った時、「わたし」の家族も崩壊したと思われます。
〈注⑧〉小説冒頭、だから姉は「プールがあるだけで、それはわたしにとって特別な風景になる」と語ったのです。手入れの行き届いたプールであったなら、そこに弟の背泳ぎする姿が浮かび上がるかもしれないではありませんか。

9 弟と訣別する「わたし」
 二十三歳になった時、姉の「わたし」は弟にもう一度だけ泳ぐ姿を見せてほしいと頼みました。
 背泳ぎする姿を見せてほしい、ただそれだけのことを頼むだけなのに、姉は妙に恐れています。
 なぜでしょう。

 もし弟が背泳ぎを見せてくれなかったなら、それは「ありうべき弟の不在」、つまり弟の死を認めねばならないからです。
 また、弟はなぜか夜に泳いでいます。
 昼に泳げばいいものを……。
 青白い四つのライトで照らされていますが、プールを包んでいるの“闇”です。
 姉が「ただ浮かんでいるだけでいいの」と声をかけても、彼は背中を向けたままで「うん」と答えるだけです。〈注⑨〉
 弟は姉に顔を見せていません。〈注⑩〉
 弟の引き締まった身体も、しずくのこぼれ落ちる音も、全部姉の幻視であり幻聴です。
 身体を限界まで鍛えていた弟が泳ぐのをやめ、隅に引きこもるだけになったなら、肉体が衰えないはずがないでしょう。
 昔のままの弟であってほしいという姉の願望が、幻を生み出しているだけです。〈注⑪〉
 弟が「水と光」に包まれていたのはなぜ?
 「左腕を含め、すべてが完成された調和の中にあった」のはなぜ?
 弟が「背泳ぎするだけで、わたしの求めるものを何でも差し出すことができた」のはなぜ?
 それは、弟が背泳ぎする姿を見せることで、彼の「生きている証」を姉に与えることができたからです。
 姉は、弟が生きていることを「確信」しました。
 しかし、その刹那、左腕が付け根から抜け落ちます。
 左腕を失った弟は、何事も起こらなかったかのように、「すばらしいフォームでわたしの前を横切って」いきます。

 「恍惚」は呼び覚まされました。
 「現実」を受け入れねばならない時がやって来たようです。

 姉は弟の左腕を拾い上げようとしますが、手が届きません。
 「現実」の弟はもう手の届かないところにいる、ということです。
 姉は、せめて左腕を温めてやりたい、弟の苦しみを取り除いてあげたいと思ったのでしょう。〈注⑫〉
 しかし、「もう少しで届きそうなのに、どんなに身体を伸ばしても、左腕は指先のほんのわずか向こうに」あるのでした。
 姉はもはや弟の死を認めなくてはなりません。
 プールを管理する必要もなくなりました。
 自宅のプールが荒廃した所以です。

 ……いかがでしょうか。
 十五歳以降の弟の姿が幻影でしかなかったことをご納得いただけたのではないでしょうか。
 次回はこの小説が描こうとしたことがらについて、私なりの考えをお話しさせていただきます。

〈注⑨〉前作において私は、姉はこの場面で「悪質ではないが嘘をついた」と述べました。しかし、どうやら私は姉という人間を見誤っていたようです。弟の死を受け入れられない姉は、最も輝いていた時の弟をもう一度見たいと思った。それが「背泳ぎをする弟」です。でも、背泳ぎなんかできなくてもいい、ただ生きていてくれてさえすればいい。その気持ちが「無理しなくていいのよ。ただ浮かんでるだけでいいの」という言葉になったのです。これは姉の「嘘」ではなく、姉の「優しさ」あるいは「恐れ」であり、「正直な気持ち」であったのです。私は姉に対して厳し過ぎたようです。
〈注⑩〉水泳をやめてからの(自死してからの)弟は顔を姉に向けていません。左腕を挙げたまま階段を下りてきて朝食を食べるシーンがありますが、母や姉の問いかけに何も答えない弟は、二人に顔を向けなかったように見えます。姉と二人で語り合った場面においても、弟は姉に顔を向けなかったようです。姉は弟と「顔を近づけ合って話をした」と書いてありますが、果たして弟は姉と目を合わせたでしょうか。「すき間は薄暗く、彼の表情は影になっていた。微笑んだようでもあったし、哀しそうに目を伏せたようにも見えた」という描写を読むと、弟は顔を姉に向けていないし、姉も弟の表情を確認できていないように思えます。
 なお、水泳をしていた時の弟と姉はちゃんと顔を合わせていました。例えば、夕食を知らせるため、姉が弟の頭をポンポンとたたいた時、「弟はこちらを見上げ、『ああ、分かったよ』という表情をした」と描かれています。
〈注⑪〉水泳をやめて6年間も家の中に引きこもっていたのに「(弟の肉体が)選手だった頃とほとんど変わっていなかった」と書かれているところで、弟の姿が幻影であることに気づくべきでした。
 ところで、「幻覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、体性感覚、平衡感覚、侵害受容、熱受容、時間知覚のあらゆる感覚様相で起こりうる」(Wikipedia「幻覚」の項目)とのことです。姉が黒ずんできた弟の左腕に触れた時、「はっとするほど冷たかった」といいます。これも「幻触」とでもいうべき現象であり、実際に触れたのではないと考えることができます。
〈注⑫〉前作において私は、「姉の手が弟の左腕に届かなかったのは、姉が弟の苦しみを理解していなかったからだ」と考えました。しかし、それも誤っていたようです。弟の泳ぐ姿も左腕も、すべて姉の見る幻影です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?