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『貌』

作せなみ

絵52Hz



プロトタイプ作品

誤字脱字に注意


 久留間 轍

 天乃 日向

 古星 翠

 繭花 紫真

 天使

小千谷





────────────────────






1冬の夢

…雪。

雪が降っている。

地平線の彼方まで覆い尽くす程だ。

…寒い。

頬が痛い。

まるで鋭い刃物のような冷たさだ。

...静寂。

音がない。

不安が喉から溢れ出しそうになる。

…なにかがいる。

あれは人だ。

よく見えないが、少女…?少年……?

背中には羽が…あった。

羽化したばかりの虫のようだ。

弱々しいそれが、乾いた目に映った。

「……」

寒々とした曇り空に顔を向けていた。

後ろ姿だけで、表情は伺えない。

流れゆく沈黙が胸を何度も刺してくる。

これは夢だと、そう思いたい。

今すぐにでも逃げ出してしまいたい。

あの顔を見てはいけないと、理解してしまった。あそこに隠れている秘密に触れてはいけない。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

早く目が覚めて欲しい。

「......」

あの顔を見てはいけない気がした。

そこにある魔性に惹かれてはいけないと、肉体が警告してくるが、体はびくともしない。

案山子にでもなったような気分だ。

焦る気持ちがどんどん強くなっていく。

早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く

もういっそ死んでしまってもいいから。

2目覚め

ジリリリリジリリリリジリリリリ...

「...朝だ。じゃあ、今のは夢だったか...」

横で鳴り続ける目覚まし時計を止めた。

冬の季節特有の冷たさが、狭い部屋の中を埋めつくしていた。暖かいのは、布団の中だけだ。

朝なのに薄暗く、それが余計に眠気を誘う。

...これだから冬は嫌いなんだ。

全身に負担をかける倦怠感が、感覚を鈍化させていく。

もう一度だけ眠ってしまおうか。そう考えて、目を閉じてみると、一階から微かに音が聞こえた。

「...今日も来てるんだ...もう大丈夫なのに」

そう呟きながら体を起こす。

「ふわぁ...っと」

白い息と共に漏れた欠伸を噛み殺して、ドアの方へと向かう。

木製の床が酷く冷たく感じる。少しでも足を止めてしまえば、このまま張り付いて動けなくなりそうだ。

部屋の明かりもつけないまま、なんとかドアノブに手をかけ、はっきりとしない思考をぶら下げたまま外に出た。

3リビングの幸福

緩慢な動きで、リビングへと向かっていく。

一階が二階に比べると暖かく感じるのは、おそらく暖房器具が付けられているからだろう。

幾つかある中の、適当な椅子に座って、一息つくと背を向けた方から声をかけられた。

「おはよう轍さん」

とても優しく熱のある声色で、聞いてるだけで僕は溶けてしまいそうだった。

「おはよう日向さん」

寝起きの、掠れた声で返事をした。

この子の名前は天乃 日向(あまの ひなた)。

今年で高校二年生になる。僕とは十年以上の付き合いがある幼馴染みだ。

傍に居るだけで、周りの空気が和む。穏やかな春のように愛らしく、とても優しい子なのだ。

それに、下世話なことだが美人だ。

きちんと手入れが施された髪はショートカットで、そこから覗く垂れ目と、泣きぼくろはなんとも言えない色気がある。すらりとした肢体は簡単に折れてしまいそうで、庇護欲をそそるのだ。

「朝食もうすぐ出来るからね」

彼女は此方に微笑みながら言葉をかける。

「いつもありがとう...」

「私がしたいから、してるだけだよ。だから気にしなくても大丈夫」

「手伝えることは、なにか」

「ううん。ゆっくりしてていいから」

いつも、こう返されてしまう。この優しさの輪郭を少しでもいいから掴みたかった。けれど、逃げられてしまうのだ。

本人にその気は無いのだろうが...

それから暫く時間が過ぎた。

「はいどうぞ」

日向が台所から戻ってきた。その両手には、作りたての朝食があった。どれも湯気が立っていて、食欲が掻き立てられる。

パンに目玉焼きとベーコン...王道の朝食だ。

「いただきます」

僕は目の前の彼女へのありがたみを感じながら、朝食へ手を伸ばした。

ここのところ毎日のように我が家へ通ってくれることには頭が上がらない。一人だけでは、冬の朝は疎かになりがちだからだ。

「美味しいなぁ...」

「ふふふ。やっぱり褒められると嬉しいなぁ」

その微笑みは崩れない。むしろ、皿から食材が、胃の中へと放り込まれる程、深みは増していく。

......この何気ない日常には感謝している。いつかは抜け出さなければいけないものだと自覚はしているけれど、このまま堕落しても許されるかと、つい考えてしまう。手放すことすら惜しいのだ。

「ご馳走様でした」

幾らか雑談を挟みながらも、食事を終えた。一欠片たりとも残してはいない。朝食を作ってくれた日向へ対する最低限の礼儀だと思っている。

「いつも綺麗に食べてくれるね」

「だって、美味しいからさ」

この幸福が、僕を蕩けさせるのだ。愛おしい時間だと思えてしまう。

「お風呂も、そろそろ入れると思うから」

(選択肢)

「それじゃあ、入ろうかな」1

『あとで、入るよ。ありがとう』2

「はい...それで、あの、その」

『うん...それで、ちょっと、うう』

目を伏せて小声で話しかけてくる。

なにか頼みたいことでもあるのだろうか。

余程の事でなければ断るつもりは無いが。

「今日は、一緒に学校まで、えと...」

くっつけた指同士を遊ばせながら、言葉を迷っているようだった。

おそらく学校まで送り届けて欲しいのだろう。ならば断る道理はない。

いつも世話になってる身だ。それに、こんな美人の隣に並べられるなら嬉しい気持ちの方が強い。

「いいよ。喜んで」

「わぁ...嬉しいなぁ。一人だと寂しくて...」

口元をへにゃりとさせてそう言った。

「どこ学校だっけ...確か...」

「聖都女学院だよ」

聖都女学院といえば、地元では一番有名な学校だ。地上最後の楽園だとかはよく聞く話で、少女たちとっては憧れの対象になりがちだ。

「でも凄いよね。聖都女学院と言ったら、深窓の令嬢ってイメージだったから、こんな身近にいる子が...って驚いたな」

「ふふふ...でも私も、なんで受かったのかよく分かってないんだ」

確かに、当時の彼女の困惑ぶりは凄かった。あれ程まで慌てふためく姿が見れたのは、ある意味運が良かったのかもしれないが。

「そういえば、完全寮制じゃなかったっけ」

「ううん。一応希望制だよ...形骸化してるけど」

「そうなんだ」

施設も普通の町なんかより余程充実してる印象があるし、住みたくなっても仕方ないか。思春期の少女たちをひとつの場所に閉じ込めておくというのは、あまりにも閉鎖的過ぎるとは思うが。

それから時間は過ぎて、身支度も終わり、今度は玄関の方へと足を運んだ。日向は鞄を手に持っており、いつでも外へ出れるようにしていた。

「ごめんね。待たせちゃって」

「大丈夫。一緒に行こう」

「そっか。じゃあ行こうか」

彼女よりも先にドアに手をかけて、相変わらずの緩慢な動作で体を動かす。外の冷気が一斉に此方側に流れ込んできた。

目が乾いて涙が出そうになる。

後ろのあの子がどんな表情をしているのか、少しばかり気になった。

3白い通学路

二人並んで歩く通学路は見事な冬景色に染まっていた。

太陽の光をいっぱいに吸い込んだ雪が、色のない白い世界を眩しくしていた。

「でも...」

「うん?」

「本当に久しぶり。こうして二人で学校まで行くなんて」

僕よりも数歩前を歩いている日向はそう言った。

小学校と中学校は同じだったから、いつも彼女の家まで迎えに行って、一緒に登校していたことを思い出した。あの頃は僕も彼女も、背の高さは同じくらいで、何も知らない無邪気な子供だった。

今ではすっかり背も追い越してしまって、傍から見たら、兄弟のように映るだろう。

黒色を基調としたセーラー服が、雪特有の白さと混ざりあって、よく出来た一枚の写真のように見えた。

なんて神秘的なんだろう。一種の、不可侵領域を生み出しているかのようだった。

思春期の少年少女のみが作り出せるような、曖昧なエネルギーのようなものを感じる。ひとたび触れてしまえば、忽ち崩れてしまいそうだった。

日向となんてことのない会話を繰り返して歩いていると、前の方から彼女と同じ聖都女学院の制服を着た少女が現れた。

「あ、翠ちゃん。おはよう」

「...先輩だ。おはよう」

少しばかり眠たげな様子で日向に挨拶をした。

セーラー服の上にスカジャンを着ているこの少女は、聖都女学院の子にしては淑やかさを感じない。死んだ魚のような黒い目をしていた。口元はだらしなく歪んでおり、相手を油断させる。長く艶のある黒髪は、別な生き物のように動き出してしまいそうだった。どこか不気味さを感じさせるものがあった。

「先輩。この人は誰です?随分と、仲良しさんに見えますケド」

妙に力が抜ける声色で尋ねてきた。

「私の幼馴染みなの。轍さん、この子は一つ下の後輩で名前は...」

「ボクは古星 翠(ふるほしすい)です。よろしくね、お兄さん」

日向の言葉に被せるようにして自己紹介をする。

「僕は久留間 轍(くるまわだち)。よろしく」

「いやぁボクてっきり、先輩の彼氏さんかと思っちゃいました」

相変わらず感情の見えない目を、日向の方へ向けて、くすくすと笑いながら言った。

「...そんなのじゃ、ないよ?大事な友達」

「へぇ」

「そうそう。昔からの付き合いでさ」

変な噂が流れたら僕よりも彼女の方が困ると思い、すかさず合いの手を入れる。この子はもしかして詮索が好きなのだろうか。

「日向。友達が来たなら、僕は一足先に帰ろうか?」
「いやいや。どうせなら着いてきてよ、ね。」
彼女の方ではなく、古星さんに止められてしまった。しかし、花の女子高生二人に話題を合わせられる自信がない。どうしたらいいのだろうか。

(選択肢)

「静かに後ろをついていく」1

『好きな本のことでも聞く』2

1

静かに後ろをついていくことにした。

彼女たちが会話に花を咲かせている様子を、後ろから黙って聞いている。これだけでも十分に楽しめる。

「お兄さんって寡黙なんだね...」

古星さんに突然話を振られる。

「女子高生の話についていけなくてさ。あはは」

僕は乾いた笑いをするので精一杯だった。

少しだけ寂しい気持ちになった。

2

好きな本のことでも聞くことにした。

彼女たちはお嬢様学校に通っている訳だし、何冊かは愛読書があるはずだ。そう思い、聞いてみることにした。

「...好きな本ってなにかあるかな」
「うーん。聖書とか、毎日読んでるよ」

さらりと古星さんが言った。

聖都女学院は、キリスト教教育でも有名なことを思い出した。

(シーン切り替え)

そうして三人で道を暫く歩いていると、遠くの方にあった学校の輪郭がはっきりとしてきた。あれを一言で例えるなら堅固な要塞か、中世の城だ。

今の時代のものだとはとても思えない。簡単には立ち入ることが出来ないような、恐ろしいものの気配を感じる。

僕が男だからだろうか、あそこは地上最後の楽園というよりも、日常という地獄への入口のように見える。

「轍さん。ここまでで大丈夫よ」
「先生たちに見つかると面倒だしねぇ」
日向は古星さんの言葉に苦笑した。

やはり名門校というのは、その辺の男女関係の規則にも厳しいのだろうか。箱庭育ちのお嬢様を、外界の雑多な人間たちから守るためにも仕方ないのだろうが...

昔この学校について調べてみたことがあるのだが、情報統制の結果か分からないことの方が多かった。結局謎はより深まってしまった。

ここから

「それじゃ。二人とも行ってらっしゃい」
「ありがとう。行ってきます」
「また会えるといいね。行ってきまーす」
二人は、此方に向けてひらひらと手を振って学校のある方へ消えていった。

しかし、一人になってしまうと冬の寒さを、より強く感じるものだ。

さらさらとした雪が、風に巻き上げられて散っていく。それが花弁のように見えて綺麗だった。

4ひとりぼっち雪原

...ついに一人になってしまった。

どこまでも広がっていると思っていた田園は、雪に埋もれてしまっていた。

何もしないで家まで帰ってもいいが、それだけでは味気ない。

ここから

この寒さは体に堪えるが、散歩がてら遠回りしていくのは問題ないだろう。
よし。そうと決まれば、どこへ行こうか...

『海』1

『公園』2

1よし海へ行こう

学校より向こう側に海がある。
雪が積もってなければいいが...

...海に着くと、雪は積もっていなかった。

湿り気のある砂が靴にへばりつく。

一歩がとても重たく感じるが、こんな所で諦めては来た意味がない。

冬の寒さを含んだ海風が、僕の顔にぶつかって弾ける。磯臭い匂いが全身を駆け巡る感じがして、なんとも言えない不快感があった。

夏の季節になると、日向と妹を連れて遊びに来ていたものだ。

...それがたまらなく愛おしかった。

二度と帰らぬ日常を思い出しながら歩いていると、古ぼけた灯台を見つけた。

こんなに大きいのに今まで見たことがなかった。

灯台の中は薄暗く、人の気配はない。

自分の呼吸音すらも、反響して聞こえる。

螺旋状に伸びる階段が、とても長く感じる。

カツン...コツン...

カツン...コツン...

この誰もいない空間に響く音は好きになれない。

孤独をより強く感じてしまうからだ。

本当に上に辿り着くことは出来るのだろうか。

ここで引き返した方がいいのでは、と思ってしまう。

何秒。何分。何時間...

一体、どれだけの時間歩いたのか分からないが、ついに一番上に行くことが出来た。

この辺り一帯が全て見える。

聖都女学院も、少し離れた場所にある町も、灰色になった海も、全てが美しく思えた。

砂浜には僕がつけた足跡だけが綺麗に残ってた。

2よし公園へ行こう

ここを引き返していくと大きな公園がある。

かなり広いから時間つぶしにはもってこいだ。

...公園には誰もいない。

子供たちが居たであろう足跡だけが残っていた。

あずまやは雪で見えなくなっていて、座って休めそうな場所はなかった。

しかし風に揺られて音を立てるブランコや、作りかけの雪だるまを見ていると、幼い頃を思い出す。日向と妹と僕の三人で遊んだ思い出...

無邪気に笑いあって、影が伸びていくのも忘れて、暗くなると手を繋いで帰った日々。

...それがたまらなく愛おしかった。

公園内にある小さな森は鬱蒼としていて、昼が近い時間でも入るのには勇気がいる。

白くなった息を吐いて、森の中へと進んだ。

日も出てるというのに、木々が光を遮っているのか、地面まで届いてはいなかった。

生き物はどこにいるのだろうか。鳥の鳴き声すら聞こえない。

ザワザワザワ...

ザワザワザワ...

葉っぱ同士が擦れる音がする。

時折、上の方から細かい雪が降ってくるのを避けつつ出口を探す。

ここは入り組んだ迷路のようになっていて、気を抜くと簡単に迷ってしまいそうだ。

暗い。暗い。暗い...

まるで夜のようだったが、出口を見つけることに成功した。

外へ出ると、まず息を吐いた。その中にいると、胸が潰れてしまいそうだった。

生きて出られないとすら思えてしまう程だ。

今は曇り空から注ぐ光が、尊く感じてしまう。

...よし。そろそろ帰ろう。

途中で昼飯を買っていくのもいいかもしれない。

いずれにせよ、散歩は続けよう。いつもとは違う道には、新しい発見や過去への懐かしさに浸れるということが分かったわけだ。あの子たちについて行ったのは正解だったかもしれないな。

日向や古星さんに感謝の念を送った。

5焼け落ちた教会

帰り道は一人寂しかった。

どこまでも続く雪景色は、太陽の光を吸って、相変わらず、目に悪い輝きを放っていた。

しかし酷く寒い...

もう午後に差し掛かっているというのに、暖かさをまるで感じないのだ。

あの分厚い雲が少しでも消えてくれれば、天からの恵みと言わんばかりの光が降り注ぐというのに、鉛のように重そうなそれは、中々動く気配を見せない。

僕が住んでいる町がかなり近づいてきた。

先程まで見当たらなかった街灯も、徐々に数が増えてきた。まだ夜になっていないというのに、明かりがついていて、明滅を繰り返している。

...田舎というのはどこか大雑把な所がある。

勿論、好き嫌いは分かれるかもしれないが、そのいい加減な部分に助けられていることも多い。

全てを優しく抱擁してくれるような、何事も笑って許せる、朗らかな世界が僕には丁度いい。

ざくざく...

ざくざく......

ざくざく.........

...こうも静かだと、雪を踏みしめる音が大きく聞こえるものだ。まるで砂のようにさらさらとした雪を、靴先でかきわけて泳いでいるような気分になる。蹴飛ばされて小さくなった白い粉が散っていく様は、どことなく美しかった。

少し先の方にぼろぼろになった建造物が見えた。

昔に崩れたにしては、かなり真新しい印象がある。黒ずんだ壁の残骸は、所々に白かった痕跡があった。

...なにか最近、火災でもあったのだろうか。

それにこれは...十字架?

木製の十字架だったと思えるモノは、辛うじて形を保っているが、無様な燃え滓にしか見えなかった。

...焼けてしまったのだろうか、本来の神聖さはもうすっかり欠落しているようだった。

その場に留まって辺りを見渡すと、丁度影になっている場所に、人影があることに気がついた。

「...お父さん」

小さな少女が跪いて祈りを捧げていた。

その姿が目に焼き付いて離れなかった。

これは同情の念からだろうか...

「君。こんな所で何してるの?」

そっと、壊れ物を扱うように声をかけた。

「え...貴方は...」

此方に気づいて振り向いた少女の目は、宝石の様な大玉の涙が浮かんでいた。どうして泣いているのだろうか。

「僕は久留間轍...ちょっと散歩中でさ。君は、えと、どうして泣いてるの?」

「それは...」

言葉が詰まってしまっているのか、彼女は口を固く結んで俯いてしまった。

青みがかった透き通るような長い髪が、表情を隠してしまって、どんな感情を宿しているのか、見当もつかない。

目の前の彼女について、表現しようとするならば、消えてしまいそうな少女と言うのがいちばん正しいだろう。

悲しそうな雰囲気が彼女の小柄さをより強く主張していて、見た目よりも小さく見えるのだ。涙まじりの瞳は陽光と混じりあって、紫水晶のようだった。

...このまま順当に育てば、きっと美しい娘になる。そんな確信が僕の中にあった。

「お父さんいなくなっちゃった」

「それは...残念だ。本当に...」

「火で焼けちゃったの...全部」

彼女は顔を上げると、ぽつりと呟いた。

冷たい風を受けて頬が赤らんでいた。

「此処は元々は教会だったの?」

「うん。」

彼女はこくんと頷いた。

しかし、焼けてしまった十字架以外に、教会と分かるようなものは見当たらなかった。全てが一夜にして消えてしまったのだ。少女の動揺も計り知れないだろう。

「あたしどうすればいいか分からなくて...」

「...もしかして、火事があった時からずっと此処にいたのかい?」

僕の質問に彼女は再度こくんと頷いて肯定の意を示した。

もしかして両親はどちらもいないのだろうか。もしそうだとするならば、大変な問題だろう。

...どうしようか。

目の前の彼女には休息が必要なように感じる。

日向に頼んで、夜も来てもらおうか。一日か二日は穏やかな時間を作ってあげたいと感じた。

「...いつから此処に?」

「一昨日から」

「そっか。もし帰る場所がないなら、うちに来るかい?数日だけでいいから...そのあとは警察なりに行って保護してもらえばいい」

彼女は俯いたまま、完全に動きを停止させた。

様々な思考が過ぎってるようだった。

当然だ。見ず知らずの人間にこんな提案をされては、誰だって警戒するに決まってる。

「どうして、そんな」

「君には、休む時間が必要だって思ったんだ。勿論断っても大丈夫だよ。来てくれるなら、僕の友人...女の子も手伝ってくれるように頼むけどさ」

紫水晶のような綺麗な目に、どんな感情が蠢いているのか分からなかったが、涙はもう流れていなかった。

「ほんとに行ってもいいの...?」

「うん...信用してくれるんだ」

「嘘は、ついてなさそうだから」

彼女の口元が僅かに緩んだ。

やはり悲しい顔なんて似合わないと思った。

それにしても嘘とは...相手の心を読むのが得意なのだろうか。

「それで、えと」

「どうしたの?」

「名前は、なんて言うのかな」

そういえば、名前を聞いていなかった。

人の名前というのは大切だと思っている。それが果たして本当のものなのかどうかはさておいて...

「あたしは...繭花 紫真(まゆばな しま)」

「まゆばな...しま...よし分かった」

紫真ちゃんか...聞いた事のない名前だ。なにか、この子に関することが分かればいいと思っていたが、そう簡単にはいかないものだ。

「...まだ祈っていくかい」

「ううん。もう終わったから」

「じゃあ、行こっか」

僕が歩きだそうとした時に、彼女に防寒着の裾を掴まれた。お互いの瞳が重なった。自分がどんな風に映って見えているか少し不安になった。

「あの、手...繋いでもいい?」

白い息を吐いた紫真ちゃんの手は震えていた。

「うん。どうぞお嬢さん」

差し出した手をぎゅっと握ってくる。彼女の指先から感情が伝わってくるような気がした。

二度と失うものか...と。

二度と失うものか...と。

少女の手は冷たく、生きているのかどうかも分からなかった。この小さな隣人に幸福がありますようにと、願わずにはいられなかった。

6我が家の春

帰ってきた我が家は明るかった。
玄関には大きさの違うローファーが二つあった。

...二つ?彼女の友達だろうか。

「ただいまー」

「...」

隣にいる小さな少女は一言も喋ることはなく、ただじっとしている。口元を再び固く結んで、鍵をかけているみたいだった。

しかし目だけは、きょろきょろと辺りを見ているのが分かった。

今日出会ったばかりの人の家というのは、やはり緊張感を与えてしまうのだろう。

「あ、おかえり」
「どうもぉお邪魔してます」
リビングに居た二人の少女に挨拶をされる。

一人は日向で、もう一人は古星さんだ。
もう一足のローファーは彼女のものか。

まさか家に来るとは...意外だ。

「すいませんね。先輩に無理言って来ちゃいました。あはは...」

だらしなく歪んだ口元は、相変わらず変化していないが、死んだ魚のような目には好奇心が宿っていた。

...僕ではなく後ろに居る紫真ちゃんにだが。

「あの、轍さん。この子は...」

日向が古星さんよりも先に聞いてきた。

「それそれ。ボクも聞きたかったんです」

後に続いて彼女も聞いてきた。

これは答えしかないだろう。

「ああ。この子は繭花 紫真ちゃん。

その...ちょっと事情があって数日間うちで預かることになったんだ」

「...紫真、です」

おずおずと前に出てきて、ぺこりと会釈をした。

日向の顔がパッと輝いた。

「...か、可愛い...」

彼女の微笑みがより深まった。

見ているこちらも和んでしまいそうだった。

紫真ちゃんも同じだったのか、張り詰めた空気が少しばかり緩んだ。

「私の名前は日向。天乃 日向っていうの」

彼女はしゃがんで目線を合わせて自己紹介をする。

「よろしくね...お姉ちゃん」

「うんうん!よろしくね紫真ちゃん!」

そのままの勢いで、青みがかった彼女の髪の毛を掬う。あまりに唐突な事だったのか、目をぱちくりさせていた。

「そういえば...風呂って入れるの?」

「うん。入れるけど...」

「だったら、この子のこと案内してあげてよ。日向も一緒に入ってくるといい」

怪訝そうに此方の顔を覗いていたが、僕がそう言うと何か察したみたいで表情が明るくなった。

「...了解。じゃあ行こっか。さあさあ」

「え...」

ぎゅっと彼女の手を取って、そのまま浴室の方へと消えていった。

僕と古星さんだけが残ってしまった。

...古星さんは、ちらりと浴室の方を一瞥した後に、再びこちらに視線を向けた。

「ねえ、轍さん」

「うん?」

「あの子は...確か、この辺の教会の子ですよね。もしかして誘拐でもしてきたんですかね」

好奇心の色は消えていない。しかしまた楽しそうに物騒なことを聞くものだ。

「違うよ...ちょっと事情があって」

「ふむふむ。それは気になりますね」

僕は溜息をついて、彼女たちが登校した後の出来事について話した。

「成程...テレビでもやってましたが、ここまでの状況だったとは」

「だから、あの子を保護しようと思ったんだよ。数日したら流石に警察にも相談すると思うけど」

目を閉じて考え事を始めた彼女に、僕の話は聞こえていないようだった。

再び目を開いた古星さんの目には、生気があった。昼行灯のような雰囲気は感じさせない。

「ですが、妙なんですよね」

「というと?」

「ニュースだと、火事の原因って雷だったんですよね。」

雷だったとは、不幸だったと言うべきか。しかしあそこまでの惨状を生み出すとは、消防隊の動きも間に合わなかったのだろうか。

「でも火事があった日って、晴天だったんです」

「一昨日だっけか」

確かに、あの日は雲ひとつない晴天だった気がした。あまりに見事なものだったと日向と二人して笑ってたような...

雷が落ちたような記憶もない。

どういうことだろうか...

「それと...あの子の親。見つかっていませんよ」

「行方不明...本当に?」

こくりと小さく頷いた。

そうだとすれば...紫真ちゃんの両親は...

...出来ることならば探してあげたいが、そういう仕事は警察に任せた方がいい。下手に探し回った所で、いい結果は得られないと思うし。

「まあ、ボクにもさっぱりですけどね!」

古星さんの目から生気が抜け落ちた。

さっきまでの重たい雰囲気が、最初から無かったことのように思えた。

「さっき言ったこと、本気に捉えちゃ駄目ですよ?にははは...」

乾ききった笑い。しかし、どことなく愛嬌を感じさせるものだった。

お互いの間にあった、透明な壁のようなものは跡形もなく消えてしまったような気がする。

気の合う友達のように、くだらないことで、笑いあったりして時間を潰した。

古星さんが人の懐に入り込む術に長けていることはよく分かった。それに抜けているように見えて、理知的な部分も兼ね備えていることも...

...かなりの時間が過ぎた気がする。

浴室がある方から足音が聞こえる。

「ふう。いい湯だったあ」

「うん。そうだね」

日向と紫真ちゃんが手を繋いで現れた。

...随分と仲良くなったみたいで安心した。

「次は轍さんの番だよ」

ほっと息をついて二人を眺めていると紫真ちゃんがぺたぺたと歩いてきて、僕の服を引っ張った。

「はいはい。分かったから」

...どうしてだろうか。

あまりの可愛らしさだ。

髪の長さは、日向よりも少し長いくらいか。透き通るような青さは、照明に当たってより薄く見える。

紫水晶のような目には理性があるように思える。しかし、この子が持つ優しさも反映されている。

このまま成長すれば誰もが羨むような美人になるという確信が僕の中にはあった。

「それじゃあ日向」

「んん、なに?」

「これからは夜も来てくれると...その助かる」

僕はそう言って、彼女がどんなに反応するか確認する前に、リビングから出て浴室に向かった。

正直なところ、断られるのが少し怖かった...

...浴槽には浸からず早めに浴室から出た。

中途半端に乾かした髪の毛が鬱陶しい。

再びリビングへ戻ると、古星さんは居なくなっていた。

「古星さんは?」

「さっき帰っちゃった」

日向は素っ気なく言った。

...あまり雑談が盛り上がらなかったのだろうか。この態度は彼女らしくないと思った。

「...どうしたの、何かあったの?」

「うーん。少しだけね...」

彼女は困ったように紫真ちゃんに目を向けた。

...本当に何があったのだろうか。

「ちょっと...こっち来てくれないかな」

日向が僕の手を取って、玄関の方へと連れていこうとする。

いつもの慈しむような微笑みではなく、深刻そうな表情だった。

「え、ちょ、なになに」

「...紫真ちゃん、轍さんの家で預かるの?」

「うん。数日だけでも休んでもらいたくて」

もしや止められてしまうのだろうか。先程までは二人の関係は良好のように見えたが...

「...もしかして駄目だったり...?」

「それは大歓迎だよ。でもさっき翠ちゃんに言われちゃって」

彼女の感情がゆっくり落ちていくのが分かった。

「その...危ないかもって...あの子は」

言葉尻がどんどんと小さくなっていく。そんな事を言われてしまったのか。

「大丈夫だよ。古星さんの事だし...きっと君の事を揶揄っただけだよ」

日向の目は不安で揺れていた。

「本当かなぁ...でも心配になっちゃって」

「どうしてだい」

「あの子の忠告だから...」

彼女はそれ以上深く語ろうとしなかった。

僕も無理をしてまで聞き出そうとはしなかった。

「でも、紫真ちゃんが悪い子に見える?」

「...ううん、そんなことないよ!あの子はとっても可愛いし、すっごくいい子なんだよ!」

両手を固く握って日向が言う。その目はもう曇ってはいなかった。

いつもの微笑みが失われていないことに安堵しつつ、僕も釣られて微笑んだ。

7日常に揺蕩う

三人で食卓を囲んで夕食を共にした。

こんなに賑やかなのは久しぶりだ。

この空間には確かに熱があった。

主に話すのは、僕と日向だけだが、紫真ちゃんも目を閉じて楽しそうに耳を傾けていた。

...家族という形が形成されつつあった。

思い出が泡になっては消えていく感覚がする。

「日向。今日は遅いし泊まっていく?」

「そうだね。空いてる部屋、使わせてもらうね」

人差し指を唇に当てて言った。

「紫真ちゃんと一緒の部屋がいいかな」

そう言って彼女の方を向いた。

いきなり自分の方へ、話題が流れたことに驚いたのか、ぴくりと身動ぎをした。

「うん。あたしはいいよ」

こくりと頷いた。

「なら決まり!」

日向は指を鳴らして楽しそうに言った。

空気がゆっくりとほぐれていくのが分かった。

「日向っていい子でしょ?」

僕が優しく言うと、紫真ちゃんの口角が少しだけ上がった。

まだ出会ってから一日も経っていないのに、二人を隔てる壁は無くなったようだった。これも彼女の交流能力の高さか。

この暖かな雰囲気は、最後まで途切れることはなく続いた。

いつもなら夕食の前には日向は帰ってしまう。

だから、こうして昔のように並んで食事が出来ることが夢のように思えてしまう。

...僕の目が潤んでいることを二人に気づかれないようにすることだけで精一杯だった。

...気づけば、遠くの方にぼんやりと浮かんでいた夕日も消えていて夜が訪れた。

冬というのは、やはり日が落ちるのも早い。

窓が風でかたかたと音を立てていた。

あんなに明るかったリビングも、重たい静けさが支配していた。

僕はそんな冷えきった場所で、湯気が立つ珈琲を一人で啜っていた。この苦味は、どうしてだか嫌いになれないのだ。

そうして何事も無く、時間を過ぎ去るのを黙って感じていると、階段のある方から物音が聞こえてきた。

...誰だろうか?

日向は、規則正しい生活を心掛けているからか、一度寝たら次の日の朝までは起きない。だとすれば、紫真ちゃんか。新しい環境だから、中々眠りにつくことが出来ないのだろう。

がちゃり。

「...あ」

リビングの扉が開いた。その隙間から小さな影が見えた。

案の定、パジャマに着替えた紫真ちゃんだった。

可愛らしいスリッパを履いているが、少しばかり寒そうに見えた。

「どうしたの?こっちくるかい」

自分が座っているソファの横を、手でぽんぽんと叩いた。

そうすると何も言わず此方に来て、僕の真横に座った。珈琲が気になったのか、鼻をすんすんと鳴らしていた。

「コレが気になるの?珈琲だよ」

「いい匂いだね...」

「でも子供には早いかな。苦いし」

揶揄うように言ってみるも、特に反応は無かった。しかし、子供特有の高い体温を感じる。

ずっと昔に、こんなやり取りがあったような気がしたが思い出そうにも忘れてしまっていた。

「僕の...」

「...?」

「君を見ていると、妹を思い出す」

未だに僕は幻想を抱いている。

朝目が覚めてリビングに降りたらおはようと挨拶してくれる妹の姿を。

...久留間 凛(くるま りん)

今は亡き大切な妹の名前だ。

彼女のことを、どうして失ってしまったのか、今でも考えてしまう。日向とは違う種類の微笑みをどうしようもなく、愛していたんだ。

日に日に気持ちが膨らんでいく感じがする。

代われるものならば、僕があの子の代わりに死んでしまいたかった。

「...妹さん。どんな人だったの?」

「...それが、思い出せないんだ」

断片的にしか浮かんでこない記憶。

妹がどんな顔をしていたのかも、どんな性格をしていたのかも曖昧になってしまっていた。

挙げ句の果ては、その死に様すらも...

... 頭が痛い。

... 頭が痛い。

... 頭が痛い。

「大丈夫?顔色悪いよ...」

「確かに、確かにいたんだよ」

僕は今、正気なのだろうか。

凛のことを考えると、いつもこうだ。

最後には分からないという結果に帰ってくる。

...生きていたら目の前のこの子と同い年か、少し上くらいか。

...深呼吸をするべきだ。

深く吸って、深く吐いて。

頭が痛い。

変な汗が出ている気がする。

寒いと思ったリビングに再び熱が生まれたような、そんな感覚がした。

「すごく大切な妹で、愛していたんだよ。なのに、消えてしまったんだ。僕の中から雪みたいに溶けてしまって...」

紫真ちゃんに視線を向けることが出来ない。

今どこを見ているのかも分からない。

正しく心ここに在らずだ。

...目の前が真っ暗になった。

...でもどうして?

柔らかな感触を感じる。

これは肉だ。

これは人間の肉だ。

僕は今抱擁されている。

...とくんとくん。

...とくんとくん。

彼女の心臓の音が聞こえる。

一定の律動で脈動しているのは、落ち着いている証拠だろう。

...それに比べて僕の心臓は不規則に鳴り響いている。小さな腕を広げる紫真ちゃんにも聞こえているのだろう。しかし彼女は沈黙を保ったままだ。

「ごめんね...ごめんねぇ...」

このまま這いつくばって泣いてしまいたかった。

芋虫のように縮こまって、惨めになりたかった。

「大丈夫。大丈夫だから」

まるで底なしの善意が、人間の形をしているようだった。

荒くなった息が落ち着いてきたのを感じる。

...どれくらいの時間が経ったのだろうか。

「ありがとう。もうすっかり落ち着いたよ」

「ならよかった」

そう言って彼女の背中を優しく叩いた。

あんなに安心出来る暗闇は初めてだった。

湯気が立っていた珈琲は冷めてしまって、金属製のカップに触れても熱くない。

「君は、本当に優しい子なんだね」

「そうなのかな。ちっとも分からないや」

教会務めの両親も、きっと天の国で、誇らしく思ってるだろう。

薄暗いリビングでもこの子の紫水晶のように綺麗な目がよく見えた。

このまま目を合わせ続けていると、僕の全てが知られてしまいそうで少しばかり不安になってしまいそうだった。

「...珈琲冷めちゃったけどさ。一口どう?」

「ん...」

何を言えばいいのか分からなくなった僕は、咄嗟に手に持っていた冷めた珈琲を差し出した。

それを受け取ってそのまま飲んだ。

「うう、苦いよ...」

「それが美味しく飲めるようになれば大人だね」

思い切り顔を顰めた紫真ちゃんが、中々に愛くるしいのだ。まるで妹のように思えて...

その後は特に喋ることなく寝室に戻っていった。

...そろそろ寝なくてはならない。

明日も明後日も、僕らのことを待ってはくれないのだから。

8哀を教えてください

…あの心乱れた夜から、二日が経った。

あれからは、特に何か語るようなことは起きてはいない。

ひとりぼっちの様に感じていた日常に、ささやかな彩りが加わったような気がした。

…僕が助けようと思っていたのに、むしろこちら側が世話になっている。僕も紫真ちゃんも口数が多い方では無いので、会話自体はそこまでだが。

…僕と日向と紫真ちゃん。

…この子たちと築き上げていく楽園。

…替えのきかない小さな幸福。

…手の中に落ちてきた奇跡。

たった数日で、随分と愛すべきものが増えた。僕は、このまま世界が回り続けると、心の片隅で思っていた。

…四日目の朝が来た。

今日も相変わらず部屋の中は冷たい。

思考が空回りするような目覚めだ。

吐いた息は白かった。

日向が来てから、部屋の中はいつもより綺麗だ。

彼女の世話焼きな性分が、自室まで及ぶとは正直なところ思っていなかった。

…十分程ベッドの上に居た気がする。

きっと現在の顔は液体のようになっているだろう。一応備え付けの鏡はあるが、情けない姿を想像してしまうと、途端に見る気が失せてしまう。

時計を見ると、もう七時を過ぎていた。

…そろそろ行かなくてはいけない。

これ以上彼女たちを待たせる訳にはいかない。

己の肉体が軋む音に顔を顰めながら、部屋を後にした。

リビングには明かりがついていない。中には、人の姿が無かった。

人の気配は何も感じはしない。

…二人はどこにいるのだろうか。

とりあえず珈琲でも飲もうか。そう考えて台所の方へ向かうと、玄関の方から音がした。

…がちゃり。

扉の向こうに日向がいた。

「…」

無言で、此方にも気づいている様子はない。

どこか様子が変だ。

まず、彼女は寝巻きだった。

この時間なら、もう学校の制服に着替えているというのに。それに、何故か所々に雪が付着していて、部屋の温度で溶け始めていた。

…外出、していたのかな?

その顔に生気はなく、短い髪は整えられることもなく寝癖がついたままだ。

何かを伝えようとしているのか、唇が震えているみたいだった。

「…日向。どうしたの?」

「…紫真ちゃん…」

僕の話を聞いているのか、いないのか分からないが、漸く言葉が出てきた。

紫真ちゃん?あの子がどうかしたのだろうか。

「そういえば、紫真ちゃんはどこに…」

「居なく、なっちゃったの」

日向はぽつりと呟いた。

「え」

「朝起きたら、隣に居なくて、家の中にも…」

そう言って彼女は言葉を続ける。

僕の頭の中は白で覆い尽くされていた。

…何があったのだろうか。

あんなに幸せそうにしていたのに、心乱れた僕を優しく抱きしめてくれたのに。そっと手を繋いで、愛がある方へと、導いてくれたのに。

日向が作ってくれた食事を精一杯頬張るあの子の姿が浮かんだ。

日常というものは、こんなにも簡単に失って消え去るのだろうか。

…頭が痛い。

…頭が痛い。

…頭が痛い。

僕は、気づいたら外へ飛び出していた。

体が勝手に動いているような感覚。

風を無理やり押しのけてひたすら走った。

目的地はどこなのだろうか。

自分でも何が何だかよく分かっていない。

締め付けてくる心臓を無視して、遠くの方へ。

すっかり世界は色を失ってしまった。

吐いた息の白さが遅れて見えた。

教会はすっかり雪に埋もれてしまって、地平線の一部になりかけていた。

…ある日に見た夢の光景を思い出した。

確か、こんな風で、それから…

忘れかけていた記憶が、無意識から浮かび上がって、僕を溺れさせようとしていた。

…雪の勢いが強くなってきた。

刃物のような風は人間相手に容赦はしない。

撫でられた箇所がひどく痛む。

これだから冬は嫌いなんだ。

数メートル先まで見えなくなってきた。

「あれは…」

どうしようもなくなって、立ち往生していると何かの影が蠢いた。

蹲っているのだろうか、何をしているかここからではよく分からない。あれは紫真ちゃんなのだろうか。

淡い期待を胸に灯し、ゆっくりと前へ進む。

白銀の粒が、視界を遮る。足元が深く沈む感覚をより現実的に感じてしまう。

近づく程に影は消えていき、より立体的に捉えられるようになる。

しかし、ある距離まで進んだ時点で違和感に支配されるようになった。

…微動だにしていないのだ。

まるで、こんな事は言いたくないが、もう死んでしまっているようだった。

焦燥感が膨らんでいく。

このまま破裂してしまいそうだった。

その時だった。

僕の視界を塞いでいた吹雪が突然止んだ。

…見えてしまう。

いや見てしまった。

目の前にある影の正体…おぞましいものが。

…それは蝶の蛹によく似ていた。

肉の蛹と呼ぶのが一番良いだろうか。元々は人間だったものだと判断出来る。

それは人体の一部で加工されたような肉感的な糸状の物質で、無理矢理繋ぎ止められている。本体であろう部分は、時折脈打って新たな生命を作りだす準備をしているようだった。

周囲には血が撒き散らされており、誰にも想像がつかないような惨劇を予感させる。そして少し離れた場所には、引きちぎられた服が落ちていた。

…あれは紫真ちゃんのものだ。

そう気づいた時、勢いよく吐き出してしまった。

幸いなことに朝食を食べていないから、胃液が口から漏れるだけで済んだ。

…心が犯されている。

目の前で脈動する肉塊に…僕自身の無力感に。

涙がぼろぼろと出てくる。

雪の上に跪いて、鉛のように重そうな雲を眺めることしか出来ない。

なんとか立ち上がろうとした。しかし、体に力が入らないのだ。

冬の香りに死臭が混ざっている。

もう、帰ってしまおうか。

そう考え立ち上がろうとした。

…どくん!

肉の蛹がびくりと跳ねた。

…どくんどくん!

まさか、生まれるのか!?

今ここで、おぞましいものが…

…どくんどくんどくん!

あの肉塊を破ろうと必死に暴れていた。

やめてくれ…やめてくれ…!

手を伸ばすが、願いは届きそうにも無かった。

びりびりびりびり!!

皮を剥いた時のような大きな音と共に、それが姿を現した。

…これは天使か?

少女か少年か区別がつかない。一糸まとわぬ姿は、まるで美術品のようだった。雪のように真っ白な髪は、どんな行為でも汚れることは無いだろう。そんな人外じみた美貌よりも、背中に生えた幼い虫のような羽が、曇り空の隙間から零れた光に反射して虹色に輝いていることが目に映った。

…輪廻。

…再誕。

…復活。

…回帰。

頭の中に浮かんでは、消えてしまう言葉たちが、どれも的外れな気がした。

現在、僕の胸中を流れる、この熱の名前は崇拝と呼んでも問題は無いだろう。

どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。

目の前の天使がゆっくりと此方を向いた。

「…貴方はだあれ?」

それは拙い話し方だった。

小さな声なのに耳元で囁かれたように聞こえて、劣情を催させるのには十分だった。

「…君は誰?」

僕は質問に対して質問で答えた。

僅かに硫黄のような臭いがする。

その目は虚ろで、どこを見てるか定かでは無い。

「ん、あたし…ワタシは…分からない」

まるで迷子の子供のようだった。

思わず手を差し伸べたくなる。

「でも…」

「…?」

「ワタシには、使命が、やらなきゃいけないことが、あるような…」

天使の目は潤んでいた。

生まれた瞬間から使命を背負わさせるのか…それは悲しいことだと、不自由だと思った。

「寒いから…抱きしめてよ…」

「はぁ…」

無邪気に手を伸ばしてくる目の前の存在に、困惑しながら溜息をついた。いつの間にか、雲は消えていた。燦々と輝く太陽の眩しさで目を細めた。

9新生児は鳴く

どうやら天使という生き物は、人間には見えないらしい。

通報してからのろのろとやってきた警察にだってまるで透明人間のように扱われていた。

どこからか騒ぎを聞き付けた野次馬たちは、各々好き勝手に己の見解を述べていた。

その中には幾つも悪魔の子という言葉があった。

…あの子が悪魔?

どうかしていると思った。あんなにも綺麗な目と微笑みを浮かべて、我が家の日常に彩りを与えてくれたのに。

冷めた目で野次馬たちを見つめていると、奥の方から男が歩いてきた。

「君が、久留間さんかな?」

男が尋ねてきた。

重たそうなトレンチコートを着ていた。短く揃えられた髪の毛に、細長く怜悧な目が僕のことを捉えていた。全体的に生真面目そうな印象を受けた。

「ええ、そうですけど。何か」

「これは失礼を…刑事の小千谷(おぢや)だ」

芯の通った声をしている。自らの信じる正義を、絶対視しているようだった。

実に刑事らしい人間だと僕は思った。

「単刀直入に言おう。君は、あの衣服の持ち主である繭花 紫真さんを保護していたというのは本当の事かな」

下手に遠回しには言わずに直接的な物言いだ。

まるで上空を飛び回る猛禽類のようだ。

普通ならば、萎縮してしまうところだが、今起きている状況の恐ろしさには負けている。

「はい、四日くらい前にですかね…」

「成程。君は、どこであの子を見つけたのかな」

「丁度、この場所に居たんですよ。一人で祈ってて…」

嘘はひとつもついていない。寧ろ、紫真ちゃんを警察はどうして見つけられなかったのだろう。

「一人で…?久留間さんは紫真さんが、二年前から行方不明だったことは知ってたのかな」

「行方不明…しかも、そんな前からなんて、刑事さんも冗談言うんですね」

「いいや。全て事実なんだ」

小千谷さんは頭を振った。その目には、憐れみが浮かんでいるような気がした。

「ねえ、この人何言ってるの?」

「…」

天使に話しかけられるが、無視をする。今ここで、返事をしてしまえば、本格的に頭のおかしいやつとして扱われるだろう。それとも僕に疑いの目がいくのか…

「ヒトってよく分からないや」

ふわふわと宙に浮いて、退屈そうに呟いていた。

…僕にはお前がよく分からないけども。

それから刑事さんに幾つか質問をされたが、隣に居る天使が頻繁に話しかけて来る所為で、生返事を返すことしか出来なかった。

…天使の声には魔力があると思う。

あの囁きを聞くだけで、脳の後ろ側を指で擽られているような気分になってしまう。

もしかして人を操るような習性でもあるのだろうか。

天使の言葉に適当な相槌をしていると、小柄な影がこちらに向かって来ていることに気がついた。

…あれは日向だろうか。

「轍さん!」

荒くなった息を整えながら、話しかけて来る。

きちんと学校の制服には着替えていた。

「あの紫真ちゃんは…」

「…」

僕は黙って頭を振ることしか出来なかった。

その様子を見た日向は、非現実から逃れるように顔を覆って、冷たい雪の上に膝を着いた。

手の隙間から真珠のように大きな涙が幾つも落ちていた。

「日向…」

どうしたらいいのか分からなくて彼女の隣で一緒になって蹲っていた。腕の中の暗闇が、安心感を与えてくれる。

…天使も見えなくていい。僕の見ている幻覚ならば、精神が壊れしまった証拠だろう。

どうにかして、消えてくれないものだろうか。

そう願いながら顔を上げても、天使は居なくなっていなかった。

…微笑みを向けられた。整い過ぎた顔は、寧ろ毒にしかならない。美貌という遅効性の猛毒だ。

「…ぐす」

「大丈夫かい。酷い顔だ」

涙を拭って立ち上がった日向の表情は、悲しみで満ちていた。

赤く腫れ上がった目に光は無い。絶望という言葉が良く似合う。

「轍さんの方が、酷い顔してる」

「僕が…?」

最早どんな状態なのか、よく分かっていなかった。あの天使の生誕を見てからというものの調子が狂ってしまったようだ。

…頭が痛い。

「どんな風、なの?」

「…言いたくない、かな」

悩む様子も見せずに断られてしまった。

鏡でもあればいいが、生憎此処は外だ。あるのは地平線を埋めつくした真っ白な雪だけだ。

…あんなに寒いと思っていたのに、手の震えは無くなっていた。

「寒い…」

天使は白い息を吐いてそう言った。

生まれたままの姿を惜しげも無く晒して、冬に向けて文句を言うのはどうなんだろうか。

…此奴は服を着るのだろうか。着てくれないと此方が困る。性別は伺えないが、とても目に悪い。服で隠さなくては正気を失いそうだった。

僕の近くまで降りてきた天使は漸く日向の存在に気づいたらしく、興味深そうに彼女のことを観察していた。何度も触れようとするがすり抜けてしまっている様子が滑稽だった。

此奴自身も人間と接触できないことを不思議がっていた。

すっかり諦めてしまったらしく、再び宙に浮いて目を閉じた。

「どうして紫真ちゃんなんだろう」

「神様は意地悪だ」

「私、もっとあの子と一緒に居たかった…」

日向は教会のあった方を向いて、あの子に思いを馳せているようだった。

初めて会った時は、どんな事をしていただろう。

…確か、祈っていた。

敬虔な信徒だったのだろう。

「あの子の為に祈ろうよ。そうすれば、あの子もちゃんと天の国に行けると思うからさ」

「…そう、だね。それじゃあ私に続いて…」

「…了解」

「天にまします我らが主よ…」

暫くの間、言葉が途切れることはなかった。

両手を組んで祈っている姿を見るのは始めてだが、こうしていると彼女もまた信仰を持っているのだと分かる。

日向が祈り始めると天使は目を開けて、そのまま風のように空高くまで上昇していった。

そして勢いに乗ったまま、歌い始めた。

その声を聞いた途端、頭が激しく揺らされた様な感覚に陥る。再び吐き出してしまいそうになった。崩れ落ちそうになるのを必死に耐える。

…あまりにも美しいのだ。

太陽の光に晒された天使の声は音よりも早く情報を伝達してくる。

枯れたと思っていた涙が出そうになる。その歌詞に込められた真理が、知りたくもないものを無理矢理喉に流し込まれているようだった。

これ程までに理不尽なものには出会ったことは、生まれてから一度もない。

…聖質。

そう呼ぶのが正しいのだろうか。

全身の皮膚が痛みで悲鳴を上げている。あれを音と呼ぶことは出来ないだろう。

例えば愛情。

例えば慈愛。

例えば友情。

例えば恋心。

例えば憎悪。

例えば希望。

例えば絶望。

例えば倦怠。

例えば例えば例えば例えば例えば例えば例えば。

永遠というものは、本当に素晴らしいものだと思っていた。

しかし今だけは、この歌が終わって欲しい。

数秒なのか、数分なのか、数時間なのか、知る術は何処にも無い。

肉体が、精神が、不可視の物質によって押し潰されそうだった。

…どれくらいの時間が経ったのか分からない。

…天使の歌声が止まった。

隣を見ると、日向は目を開けていた。

その口元には僅かに微笑みが浮かんでいた。

「付き合ってくれてありがとう。気分も少しづつ落ち着いてきて…何だか、救われたみたい」

彼女の形が歪んで見えた。

「うっ…おええぇ」

気が緩んだのか、思い切り吐き出してしまった。

…赤い?

両手にべったりと付着したものは血液だ。

どうやら血を吐いたらしい。

動揺よりも困惑が先に来ていた。

「轍さん!?」

慌てて日向が近づいてくる。

必死になって彼女の手を掴もうとしたが、体が動く気配が無い。意識が薄くなっていく。

…天使は何を。

目を動かして探すと、彼奴は僕の頭を撫でていた。どんな表情をしているか影になって見えない。

視界が暗くなっていく。

風が吹いた。

白銀の粉が巻き上げられて、太陽の光を遮った。

10白亜の宮廷

…目が覚めると病院にいた。

噎せ返りそうな消毒液の匂いが鼻腔を擽る。

真っ白で飾り気のない部屋だった。

他に人の姿は無かった。これじゃ僕の自室と何も変わらない。

生霊たちの墓場であることに違いは無かった。

死体のようになって窓の向こうを眺めていると、ナースに連れられて日向が病室に入ってきた。

いつもの学校指定の制服ではなく、私服だった。

…今日は休日だろうか。

下らないことを考えていると日向と目が合った。

力無く笑うと、彼女は早足でベッドの真横にある椅子に腰掛けた。

「よかった…よかったよ…」

安堵の息と出た言葉には優しさがあった。

慈愛に満ちた微笑みは、完全とは言えないが調子を取り戻しつつあるようだ。

「僕なら大丈夫だよ」

「でも、いきなり血を吐いて倒れたら、誰だって心配になるよ…」

…あの歌を聞いたからだろうか。

あれだけ大量の血を吐いたというのに、よく生き残れたものだ。死んでもおかしくない状況にいた事だけは覚えている。

…決して思い出したいものでは無いが。

「どれくらい寝てたのかな」

「三日だよ。本当に死んだみたいに眠ってて…私、ひとりぼっちになると思って…」

日向の微笑みは崩れて言葉も震えていた。

「まだ生きてるよ」

彼女の手をそっと握った。

…暖かい。

僕の体温は今何度なんだろうか。

「本当に良かった…」

彼女は手を込める力を強めた。

「…それでさ、いつ退院出来ると思う?」

何か検査やリハビリ等、しなければいけない事はあるのだろうか。もしそうなら、手早く済ませてしまいたい。実の所、病院はあまり好きではないからだ。

「今日一日は様子を見て、問題無さそうなら明日には退院出来ると思うよ」

随分とあっさりだと思った。

僕が倒れて動けなくなっている間に、調べてしまったのだろうか。

「僕の体は特に何も無いって?」

「それが…」

彼女は困惑した様子で言葉を続けた。

「医者の人も、よく分からないって」

「そうなんだね…」

あの日聞いたおぞましい歌。

何かを賛美するような異質なもの。

やはり原因は天使にあると思った。

…そういえば天使はどこだろう?

辺りを見渡したが、見つからない。

消えてしまったのだろうか。

「どうしたの?」

きょろきょろと視線をそこら中に向ける僕に日向は心配したのか、声を掛けてきた。

彼女にあの不可視の存在である天使のことを打ち明けられる気がしなかった。

これ以上不安にさせる訳にはいかない。

「し、心配しないで。病院の世話になるのは、久しぶりだったからさ。つい気になってね…」

嘘では無い。

前に病院に訪れたのは何年前だろうか。

こう見えても健康体なのだ。

日向との会話は昼食の時間まで続いた。

「今日は帰るね。元気そうで良かった」

彼女は扉に向かう途中で、振り返って微笑みを僕に向けた。

「うん。気をつけて帰ってね」

後ろ姿が見えなくなるまで手を振った。

靴が床を鳴らす音が遠くなっていく。一人だけの病室に静けさが戻った。

「ふわあ…」

静寂に天使の蠱惑的で幼い欠伸が響き渡る。

…しかし、一体どこに居るんだ?

そう考えた時だ。毛布がごそごそと蠢いている事に気づいた。慎重な手つきでめくってみると幸せそうな表情を浮かべて微睡んでいた。

この無害そうな表情を恐れている。

一度歌が始まったらどうなるのだろうか。

次は、生き残れるだろうか。

悪態のひとつでもついてみようかと口を開くが、言葉が出てこない。

「日曜日ってほんと苦手…」

「なんでだよ」

「力が出ないんだあ」

天使は脱力しきっているのか、緩慢な口調で要領の得ないことを宣っている。

「憂鬱だ…」

「あんな元気に歌ってたのにね…」

「だって、あの子が祈ってたんだよ?」

此奴は両手を絡ませて祈る様子を再現してみせる。もう二度とあんなもの聞いてたまるものか。

「あんな歌が、許されるものか」

心からの思いだった。これ以上血反吐を吐くのは御免こうむる。

「駄目。祈りには応えなきゃ」

それは拒絶の意志を乗せた冷たい声だった。

「ワタシたち、飛べなくなるのはイヤ」

何かに怯えているようだった。酷く弱々しい。

虹色の光沢がある虫の羽が小刻みに震えていた。

「それってどういう…」

「…」

天使は問い掛けに応じない。目を閉じてベッドの中に潜り込んでしまった。

…何だか、僕も眠たくなってきた。

少しだけ眠ろう。

此奴の顔が見えないように反対を向いて、意識を無意識の中に沈めていった。

…辺りは暗闇で、蛍光灯の薄明かりが、部屋中を照らしていた。

不気味な雰囲気が漂っている。

時間は午前一時。深夜になっていた。

…不味い寝過ぎた。

再び寝ようと思っていたが、脳はすっかり覚醒していた。こうなったら二度寝は期待出来そうにない。

天使はまだ眠っているだろうかと毛布をめくってみたがもぬけの殻だった。

薄暗い病室を見渡していると、廊下の方が笑い声が聞こえてきた。

どうやら廊下で遊んでいるらしい。

こうも騒がしいと様子を見に行きたくなる。

…一体何をしているんだ?

「あはははは!」

天使は裸足の足でぺたぺたと走り回っていた。

「ねえ遊ぼう!」

「今、何時だと思ってるんだ…」

「だってだって今日は月曜日だから!」

腕を伸ばして、飛行機の真似をしながら言った。

…なんて自由な輩なんだ。

正直な所、この自由さが少しだけ羨ましいと思ってしまった。此奴からは、何者にも縛られないという意志を感じた。

「そう言えば」

はしゃいでいた天使の動きがぴたりと止まった。

「あの子の名前って何?ワダチの友達」

「日向の事を言ってるのかな」

「多分その子」

そう言えば、此奴は日向に興味津々だったことを思い出した。触れられない事に落胆して離れていったような気がする。

「ワタシはね、先触れなんだよ」

「…それで」

「…あの子のこと大切にしてあげて」

天使は僕に微笑んだ。

捨てられた犬でも見つけたような表情で、蕩けてしまうような甘い声で忠告してくる。

理解は追いついていなかった。

僕が何も返事をしないことを確認すると、天使は再び両腕を広げて笑いながら廊下を駆け出した。

足音が暗闇の中に消えていったのを聞いた後に、病室へ戻って目を閉じた。

心臓が鬱陶しいくらい鳴っていて、暫くは眠れそうに無かった。

11軽くて非力な食事

すっかり調子も取り戻して退院し、今はもう家の中で日向と二人でのんびりとしていた。

経った数日の間だったが、此処に居なかっただけで懐かしさを覚える。我が家の匂いというものすらも忘れかけていた。

「おはよう」

「おはよう。轍さん」

何処にでもある小さな日常は挨拶から始まる。

悲しみは何一つ浮かび上がっていない。

全てが白紙に戻ったような気がした。

天使はリビングの中を、あっちこっち歩き回っていた。

つけっぱなしのテレビや、台所の方から香る朝食の気配に誘われて、楽しそうにしていた。

この光景を新しいものだと認識出来なかった。昔からこんな風に賑やかものだったような気がする。

意識の定まらない頭で考えられることには限界がある。最早正気とは言えないかもしれないが、受け入れるしかなかった。

…紫真ちゃんは、天の国に辿り着いたのだろうか。出会った時も悲しそうに祈っていたし、あれだけの信仰があれば心配ないと思いたい。

日向の鼻歌が聞こえなくなった。

そろそろ朝食が出来上がる。今日はどんなものが出てくるだろうか。

そう考えながらテーブルの方へ向かった。

「はい。今日は和食だよ」

「ふわあ…凄く、美味しそう」

欠伸を噛み殺しながら言った。

洋食も良いが、和食も悪くない。わかめと葱が入った味噌汁は身体の芯まで温まりそうだし、鮭が散らばった白米は贅沢さすら感じる。きゅうりを輪切りにしただけの付け合せには、生姜でも合わせても良いかもしれない。

これだけのものを、毎日のように用意してくれる日向には感謝するしかない。

白米の一粒も残さず全て食べた。冷たくなった体に良く沁みるような優しい味だった。そこに彼女の微笑みが加われば、幸せすらも噛み締められる。

「おかわりはいい?」

「うん。送っていきたいからさ」

「ふふ。慌てなくても良いのに…それに今日は迎えが来るから大丈夫」

迎え?いつもなら一緒に行くというのに珍しい。

「今日くらいゆっくり休んで」

「もう平気だっていうのになぁ」

日向の気遣いだったらしい。体調の方に特に異常が無くても、やはり病人という括りなのだろうか。

ピンポーン。

ピンポーン。

インターホンが二回鳴った。

「あ、もう来たのかな。早いなあ」

彼女は軽やかに玄関の方へと向かった。

僕の横を通り過ぎた時に、揺れた髪の毛から変わった匂いがした。香水を付けたのか、洗髪料でも変えたのだろうか。

遅れて玄関の方へ向かうと、見知った顔の少女が一人居た。

「どうもどうもお兄さん。もう元気になったようで」

古星さんは目を細めて、安心したように口を緩めた。彼女にも心配を掛けてしまったのか。

「いやはや、もうすっかり元気だよ」

ひらひら手を振ってみせた。

彼女のだらしない笑みが深くなった。

「それは良かった。それじゃ、先輩準備は出来てますかね」

「うん勿論。」

そう言うと日向は、教科書で重たそうな鞄を手に持って靴を履いて古星さんの隣に並んだ。

「二人とも気をつけてね」

「轍さんも、だよ」

「そうだよ倒れないでね」

見送りをしようとする僕を、二人は揶揄うような目で見ていた。流石に二度目は無いと信じたい。

「お兄さん行ってきまーす」

「…行ってきます」

「行ってらっしゃい」

異なる微笑みが扉の隙間から零れた光に照らされて、一層綺麗に思えた。

「あの子、行ったの?」

「ああ…」

扉が閉まると後ろから声を掛けられた。

振り返ると天使の曖昧な美貌が目に映った。

「ふうん…まあいっか。ご飯食べたい」

「ご飯?天使も食べるんだ」

そう言うと嬉しそうに何度も頷いた。

「ワタシは人間のものに興味ある」

…何を食べるのだろうか。あまり難しいものは作れないし、パンでも与えようか。

そう思いながらリビングの方へ移動した。

「天使ってのさ。石ころと水を、パンとワインに変えられるものなのかな」

「…何言ってるの?」

こてんと首を傾げて、理解出来ている様子は無かった。救世主の御業が否定されたようで少し寂しかった。

その後も、幾つか質問してみたが、あれもこれも此奴にはどうでもいいらしく、途中から顔を顰めていた。神話的幻想が、がらがら音を立てて崩れていく…本当に天使なのだろうか。

「これでいいの?」

「…パンって奴だ。美味しそう」

皿の上に乗っている食パンに夢中になっていた。

そしてそのまま掴んで口へ運んでいく。

「もの触れるんだ…」

純粋な驚きに天使は答えた。

「凄く面倒くさいけど」

そう呟く天使の手には力が込められているようだった。

「ワタシは軽いから。力を抜くとすり抜けちゃう」

軽いとはどういう意味なのだろうか。天使は真実を教えてくれはしないだろうが。

此奴は非力なのだろうか。確かに折れてしまいそうなくらい華奢ではある。この世に縛られない程度の質量しか無いのであれば、とても可哀想だと思えてしまう。

天使は力いっぱいパンに噛み付いて、咀嚼しようとしているが中々飲み込めそうに無かった。

液体のような取り込みやすいものの方が良かっただろうか。しかし、そのまま肉体をすり抜けてしまったら片付けるのが大変そうだ。

「ふう。お腹いっぱい」

「まだ半分しか食べてないけど…」

皿の上には、綺麗に半分だけ食べられた食パンがぽつんと載せられていた。

…仕方ない。残りは食べてしまおうか。

僕が残りの食パンを食べていると、恨めしそうに此方を見ていた。その浮き上がった肋骨の内側に詰め込められるのであれば、喜んで渡そうと思う。

「ワダチ」

「何?」

「…この日常は好き?」

脈絡も無く天使に質問される。

「勿論。絶対に手放したくはないよ」

「なら祈って」

テーブルから乗り出した此奴の爛々とした目に、圧倒されてしまいそうだった。

口角は僅かに上向きで笑っていることが分かった。もしかしたら嘲笑っているのかもしれないが。

「願いは叶うよ」

「…」

天使は、悪魔のような囁きで誘惑してきた。

その美しい顔を近づけて欲しくなかった。

「嫌」

「ふーん。どうして?」

「神頼みなんて御免だから」

誰かの信仰を否定する気なんて無い。ただ単純に神なんてものを信じてはいなかった。

「それに、嘘ついてまで祈る必要ないだろう」

「…確かに」

そう言うと、天使は自分が座っていた場所に戻った。

「…自由意志は失われてはいけない」

冷たく意志を感じさせない声色だった。

この声を聞いた時、久々に天使が人外のものであることを思い出した。普段の此奴は限りなく人間みたいだった。

「ワダチ。気の触れた人間よ」

「…いきなりだね」

「お前は生きたいか?」

…生存欲求だと。

天使は僕の内側を覗こうとしている。

心の空いた穴に果たして何があるのかを。しかしそれを教えて何になるというのだ。この死は、誰のものにもするものか。

…与えてなるものか。

「運命に近すぎるとお前に告げる。生誕の時はもうすぐそこまで来ている」

「どういうことかな」

「無知蒙昧は罪では無い。故に人間という生命体は生き残ることが出来たのだ」

次の言葉はもう無かった。

…人形のようだった天使の目に光が灯った。

「ワダチ?」

「…なんでもない」

此奴はさっきの奴では無いのだろう。

理知的に此方を見下していた。それが当たり前のようだ。

…何故見逃されたのだろうか。道端の石ころには興味が無いということなのだろうか。

「ねえ、飲み物は飲める?」

「…オレンジジュースくれるの!?」

僕は天使の言葉に答えず、黙って冷蔵庫の方へ向かった。

変わり者は一人増えたが、日常が壊れることは無い。心は少しだけ軽かった。

12亡き少女は何処へ

まだ外は寒いと、玄関から出てすぐ外の庭で考えていた。

空は青い絵の具で乱雑に塗りたくられたように、あちこちに凹凸があるように見えた。

「ただいまー」

日向が帰ってきた。

手に持った鞄がゆらゆら揺れていた。

「どうしたの?寒いから入ろうよ」

何やら心配した様子で聞いてくる。

別に家の中が嫌だからという訳ではない。天使の戯言に延々と付き合うのに疲れただけだ。

無垢なものというのは、底無しの体力があるようで、出不精な僕だと相手をしきれない。だから、少しばかり外に出て一人になっていた。

「ん。何だか疲れちゃってさ」

「ここの所、色々あったもんね」

そう言いながら日向は僕の横に腰を下ろした。

溶けた雪でスカートが濡れてしまうことも大して気にならないようだった。

「紫真ちゃんの事さ。凛みたいに思ってたんだ」

「凛ちゃんかあ…そうだね。私も、妹みたいだと思ってた」

彼女は昔の事を思い出しているようだった。

妹…凛の顔がどうしても浮かんでこなかった。

まるで誰かに記憶を盗まれてしまったような気分になった。

「日向はさ、凛の顔って覚えてる?」

「うん。昔は良く一緒に遊んでたから。凄く大人びた子だったよ」

大人びた子?どうしてだろうか、僕の知っている妹では無い気がする。あんなに無邪気で、良く笑う天使みたいな…

そう、天使みたいな…

「…思い、出せないんだ」

「凛ちゃんの事を?」

「凛の事を考えると思考が曖昧になる」

「…それは、仕方ないよ」

慰めるような包み込む声だった。

聞くだけで、温い水の張った浴槽の中に沈んでいくような気持ちになった。

「だって、轍さんは見てたから」

「…?」

何故だろうか、酷く胸が痛い。こじ開けてはいけない扉に手を掛けられているような感覚。一度開いてしまえば、そこから様々なものが溢れてしまいそうな。そんな予感がする。

「凛ちゃんは、交通事故で」

「…う」

彼女の言葉を嘘だと思いたかった。

「丁度、明日が命日だよ。私は毎年お墓参りに行ってるんだけど」

…その日は吹雪で何も見えなかった。

「お兄ちゃん!」

凛の声だけが僕の道標になっていた。

「お兄ちゃん!」

手を繋いでおけばよかった。

「お兄ちゃん!」

どすん。

何かが目の前に落ちてきた。

「…」

それは、妹だった肉塊だ。

手足は変な方に曲がっていた。

妹から滴り落ちる血が両手を汚した。

新鮮な死体に雪が積もって徐々に重くなった。

凛の顔は。

凛の顏は。

凛の貌は。

記憶から剥がれ落ちて透明になっていた。

こんな惨めな記憶は壊れたと思っていた。

ごみの日に出す予定の袋の中に詰めて、とっくの昔に遠くへ行ってるものだとばっかり思っていた。

「…妹を殺したんだ」

ぽつりと呟いた。これは僕の罪だ。

黒く塗られた頁を白紙で隠していた。

「貴方が殺した訳じゃない」

それは強い否定だった。

「轍さんが悪いわけじゃない」

…僕は、今どんな顔をしているのだろうか。

頬が濡れて冷たかった。

「大丈夫。大丈夫…」

日向は肩を抱いて此方を落ち着かせようとしていた。掌の体温が鮮明に伝わってくる。

今よりもずっと幼い頃は、悪夢ばかり見ていた。

妹が死ぬ夢。

僕が死ぬ夢。

茨で編んだ冠をつけることを恐れていた。

「逃げ出したいよ…」

「…ならさ、私と行く?」

「どこまで、着いてきてくれるのかな」

「どこまでも」

悪童のような微笑みで言った。

彼女は迷っていなかった。

僕の全てが真実であるように、無垢な少女に疑いは無かった。

「ふふふ。冗談だよ」

ぱっと日向の手は離れていく。

それだけなのに寂しいと思ってしまった。

「…そうだと思ったよ」

精一杯の強がりをして見せるが、彼女には通じない。憂いに喘ぐ人間の事なんて、何もかもお見通しのようだった。

「元気、出た?」

立ち上がった彼女は、両手を後ろで組んで片目を閉じた。その姿が眩しかった。

「…うん。ありがとう」

「どういたしまして!」

日向は嬉しそうに微笑みながら言った。

気がつくと、空の色が茜色に染まりつつあった。

「そろそろ、戻ろっか」

「ごめんね。寒かったよね」

「ううん。いいの」

白くなった息を吐いた日向の表情に曇りは無かった。

彼女が玄関に向かったのを確認した後に、遅れて僕も家の中に入った。足跡の残った雪の上に落ちた水滴は、凍って宝石玉のようになっていた。

遠くの方で少年少女達の笑い声が聞こえた。

13

…深夜零時より少し前の事だ。

夜が近づく程、奇妙な感覚が強くなっていく。

「眠れないの?」

天使が聞いてくる。それにしては、いつも以上に落ち着きが無い。頻りに時計と窓へ視線を送っていた。

「胸騒ぎがするんだ」

「…ワタシもだよ」

…ちくたく

…ちくたく

…ちくたく

いつなら気にもとめない筈の小さな時計の音すらもうるさく感じる。

「ねえ。もう一回聞くけど、祈らないの(1.2)」

「…しつこいな。神になんて祈らないよ」

「無神論者って大変だね」

相変わらずの曖昧な言葉だ。確信を遠ざけるように話すのが天使のやり方なのだろうか。

「なあ」

「なあに?」

「…今日って何かあるの?」

「うーん。ワタシもよく分からないんだ」

「でも」
一呼吸おいて天使は言葉を続ける。

「呼ばれている気がする」
「一体何に…」
聞くだけ無駄だろうが、知りたい気持ちは無くなってはいない。此奴の正体を少しでも知りたかった。

「同胞たちだよ」
「…ん?」

…仲間たち?

まさか、あの肉の蛹が幾つもあるというのか。あんなにもおぞましいものが?冗談だと言って欲しかった。

「あれ、言ってなかったけ…」
その表情が白痴で微睡む人形のように見えた。
僕の方に向けた視線に浮かんだ感情には見覚えがあった。

…食欲。

此奴は何かに飢えているようだった。
まさか、人間のフリをしていたというのか。
この姿はあくまで擬態でしかないというのか。

「お前…何を食べたいのかな」
「そりゃ勿論、肉かな」
「…何の肉?」
「美味しいの!」
天使の微笑みが本物なのか分からなくなってきた。これが全て偽物で、その内面は救いようの無いものだとしたら…此奴は一体何なんだ?

「ワダチ」
「…どうしたのかな」
「救われるといいね」
投げかけられた優しい言葉すら、本心から来るものなのか分からなかった。油断してしまえば、あっという間に喰われてしまって、此奴の腹の中で余生を過ごさなくてはいけなくなるかもしれない。

少しづつ、相手に気づかれないように距離を取っていると、運命の時間が訪れた。

ぽーんぽーんぽーん。

ぽーんぽーんぽーん。

ぽーんぽーんぽーん。

…深夜零時だ。

…静寂だ。

…先程までしていた胸騒ぎが嘘だったみたいに落ち着いた。もしかしたら杞憂だったのかもしれない。ただ心配し過ぎただけか。

「…あれ」
横に居た筈の天使が居なくなっていた。

…いつの間に。

慌てて窓の方を見てみると、微振動する天使の羽の一部が見えた。

…外は深夜だと思えない程、明るかった。

雲の隙間から黄金の光が地面を照らしていた。

「…これは、一体…」
「ワダチ。来たんだ」
少し離れた場所で天使がぽつんと立っていた。

「ねえ聞こえる?」
「…」
「同胞達が生まれるよ。いっぱいいっぱい」

歌が聞こえる。

あのおぞましい賛美歌が聞こえる。

少年のような声。

少女のような声。

テノール。

アルト。

ソプラノ。

産声が重なり合って混声合唱団のようだった。

僕は恐怖で壊れてしまいそうになっていた。

「この子達と一緒にね、天の国を目指すんだ」
「…冗談だろ」
そんなものある筈無い。

例えあるとしても、おぞましい人外達の住処では無いと思いたい。これから始まる禁断の儀式の予感が、心を不安定にさせる。

「…それに、ヒナタもいるよ」
「は?」
それはつまり、あの肉の蛹にされたという事か。何故あの子がそんな目に合わないといけないんだ。彼女は誰よりも善く生きてきた筈だ。

「巫山戯るなよ!なんで、なんであの子が!?」
「祈ったから」
愚か者を見るような目で天使は言った。

「祈れば叶えてあげる、でも対価がいる」
「あまりにも、それじゃ理不尽だろ…」
地面に手をついて、絶望のままに堕ちてしまいそうだった。

痛いくらい冷たいのも気にならないくらい、僕は日向の事を悔やんでいた。

どうしようもなく無力だった。

「…そろそろワタシ行くね」
「煩い。好きな場所に飛んでいけばいい」
「うん。受難の人間…ばいばい」

別れを済ますと天使は空高く飛んでいった。

それに続いて他の天使も、光の差す方を目指して飛んでいった。

一匹、また一匹と百匹を超える芸術品の如き天使たちが群れなしていた。
彼ら或いは彼女たちは時折お互いに絡み合うようにして、自分達の肉を喰らいあっていた。

ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。
ぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼり。
くちゅくちゅくちゅくちゅくちゅくちゅくちゅ。
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。

…共食いと呼べばいいのか同化と呼べばいいのか、ただ本能のままに羽を振るわせていた。

僕が黙ってその光景を見ていると、空から一匹の天使が落ちてきた。

所々が無惨に食いちぎられており、粘性のある銀色の液体と青い内臓が零れていた。

…その顔には見覚えがあった。

…妹の、凛の顔に良く似ていた。
兄に似ていない大人びた少女だった。

薄い唇が微笑みになることは少なかったが、日向を前にすると、そっぽ向いて耳を赤らめていたことを思い出した。

三人で手を繋いで、意味の無い会話をしながら笑いあったりして穏やかな日々を過ごしていた。

べっこう飴のような綺麗な目に生気はもう無かった。桜の花弁のように美しい色彩の爪はだらりと下を向いていた。

…こんな貌だったんだな。
奪われたものを取り返したような気がした。血を流し続ける傷口がようやく塞がって、綻んでしまった心が在るべき場所をへ戻っていった。

妹に似た天使を抱き上げると、太陽はすっかり昇っていた。

…寒い。そろそろ家に帰ろう。

冬の朝とは思えないくらい暖かい光が天使の死体を溶かしていた。銀色の液体が地面に染み込んでいく。

雪に反射した光がきらきらと輝いていた。僕の事も腕の中で眠っている妹に似た天使も全てを平等に飲み込んでいった。

終わりは近いのかもしれない。けれど決して今では無い。当たり前の今日が訪れる。

日常はどこまでも続く。死ぬまで永遠に。

『貌』了

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