A3

読み終えて強く思ったことは、
「これは日本の『エルサレムのアイヒマン』に(今のところ)なり損ねた本かな」

『エルサレムのアイヒマン』とその著者であるハンナ・アーレント、そしてその中で語られる『凡庸なる悪』という概念は僕が馬鹿の一つ覚えで繰り返しているテーマで、実際このA3でも締めくくりの一つとして引用されている。

何度述べたか分からないが
「巨大な悪とは悪人や異常者の手によって行われるのではない、我々となにも変わらない普通の人間によって実行されるのだ。
(だからこそ我々は今自らが実行しようとしていることを見つめ直し、疑い、思考停止しないよう努めることで悪の道に走ることを阻止しなければならない)」
というアーレントの思想は古今東西あらゆる文化やメディアのベースとなっている。

これはオウムの信者や幹部にも当てはまり、映画「A2」で映し出された彼らの姿は正に脆弱な一般人そのもので、サリン事件当時小学生だった僕がメディアに植えつけられた「絶対悪」とは異なるものだった。

では首謀者と言われている麻原彰晃はどうなのか?メディアが作り出した「ラスボス」そのものなのか、それとも彼はまたアイヒマンなのか。
ホロコーストを取り巻く裁判では親玉のヒトラーは不在でアイヒマンが大トリを務めることになったが、当時の日本ではまだ親玉が生きていた。
アーレントの時代には辿り着けなかった悪の心理に踏み込めるかもしれない---

と書くと著者である森達也が国ぐるみの陰謀と闘うスペクタクルなノンフィクションものっぽくなるが、実際には森が公判の場ではじめて姿を見た「ラスボス」は既に精神崩壊しており、それがこのA3のはじまりとなる。

森はサリン事件の謎を麻原の口から解明するためにも精神鑑定させるべく動くのだが、結論としては何も変わらず、史実通り麻原は処刑され、事件や麻原自身の陰謀疑惑や思惑のほとんどは謎に包まれたまま終わる。
終わらなかったがゆえに、A3はオウムの真実を語るドキュメンタリーではなく、今の日本の、人間の在り方、考え方、生き方について問いかける、それこそアーレントが語る心理学により近づいているかのように思う。

森達也氏の著作は「陰謀論に嵌った妄想」と評されることがある。A3を読んでいてもまあそれも分からなくはない。基本的には中庸な言葉と立場をとっているが、同時にあえて極端な論を問いかけるスタンスでもあるからだ。
少しでも可能性があればそれを排除しない、という彼のスタイルは中庸としては確かに正しく、逆のベクトルで振り子のように揺れ動く日本のメディアと大衆に対して待った、を投げかける。

極端な陰謀論に同意まではしないが、世の中に疑いを持って生きることは必要だと常々思っている。
アホでも分かる「分かりやすさ」にメディアが固執し出したのもオウム以降だとA3は語る。
マスコミが扇動した世界大戦。マスコミが誘導した坂本弁護士殺人。
今のマスコミが国民を引っ張ってく力があるだなんて思っちゃいないけど、今の自分が何をしたいか、何をしているかを知り考える力、普通の人々の中に潜む邪悪さを回避して生きることはメディアなんかよりよほど大事だ。
分かりやすさを疑い、邪悪を信じることは。

結局A3を読んだことでオウムへの理解が深まったとか、麻原彰晃の身の上を知ったことで感じたこととか、当時の情勢を思い描くことで身についたとかで大きな変化は自分は感じないが、
しかしやはり、何を疑い、何を信じるかを選択することはそのまま人の生き方そのものに繋がるし、信じていることがたまたま他人と重なることを人との出会いと呼ぶ。
それを意識しているかしていないかで生き方はまた大きく異なってくるだろうし、その意味を日々考える人間でありたいな…
と、森達也に触れるキッカケになった映画『FAKE』をはじめて観た時と同じ考えをまた改めるのだった。

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