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いまの資格試験と若かりし頃の受験勉強の思い出プレイバック

先日、新聞の折込チラシにある新築ビルへの投資案件の広告が入っていました。その新築ビルは以前は、年配の(というかおじいちゃん)男性3名がせっせと働いておられる小さな、街のガソリンスタンドが営まれていた場所で、ある日ガソリンスタンドが閉店した後、ビルが建築されました。

チラシでは入居テナントに触れられていなかったけれど、結局1F以外の全フロア、進学塾。すでにたくさんの有名な、あるいは有名ではない進学塾が乱立しているのに、まだできるんだ!最寄り駅にも、これまた折込チラシでも、ばんばん広告が打たれている。すごい。地方出身で、進学先の選択肢すらほとんどなかった私にとって、塾選びから頭を悩ませるこの境遇は、驚きと、大変そうだなあというお受験パパ・ママ(という言葉はまだあるのか?)への畏敬の念をいだかずにはいられないものだったりする。

旧帝大の法学部を卒業した私は、当たり前のように予備校と家庭教師のお世話になっていると思われていたことが先日判明した。都心のブルジョワ育ちめ!とそう思っていた相手に心の中で舌打ちをしたわけだが、実際は、予備校は無料にしてくれる代ゼミの夏季講習を冷やかした程度。高い交通費を払って名古屋に遊びに行っていたようなものだったが、授業は退屈で、すぐに飽きて行かなくなった。それよりも、友人たちと放課後に勉強会をしたり、学校や寺子屋で先生を捕まえてわかるまで付き合ってもらったりと、とても牧歌的な大学受験だった。楽しかったな。

大人になっても数年に一度、受験勉強をしている。資格試験の。
しかし、学習習慣を失ってひさしい40代の脳味噌に受験勉強はきつい。初めてみる用語や理論、同じようなアルファベットのキーワード、学生時代ですら挫折した経済学のグラフ、、、つらい。一昨年はPMP®️を受験した。いまは中小企業診断士を受験しようとしている。つらい。PMP®️は結局、一発でパスした。そうだ、私は受験勉強は比較的得意な部類のはずなのだ。そんなわけで、大学受験時代の勉強方法について少し思い返してみた。

前置きが長くなってしまった。
クラスの友人たちはそれぞれ、得意科目を持っていた。留学帰りで外大を目指していたK姉さんは英語、いずれ家業を継ぐHくんは理科(生物)、わたしは数学、古典。勉強会の形式は話し合って決めた。科目を得意とする人が主に教える役になった。数学にしろ英語にしろ、持ち寄った回答をみて、どこで、なぜつまづいたのかを考え、その人に合うようにレクチャーをする。毎週のこの行為が、翻って自分の学びになるということをこのとき初めて知ることとなった。話すこと、それにより理解してもらえたという満足感と思い出による知識の定着。思い出は美しく、いまでもあの勉強会楽しかったなあと思う。(勉強の合間や帰り道での雑談込みで。)

さて、いま取り組んでいる試験勉強は、ひとりで淡々としている。法律を生業とする家人に水を向け、過去問を無理やり解かしてみたら、「悪問だ」的なことを言われた一方で、「改正法の勉強しなきゃな」というコメントをもらった。にやり。「一緒にやろ」って持ちかけたけど、「自分の試験勉強に集中しなさい。」と一蹴された。くそっ。
勉強会は同じ目的を持つ、連帯感があるからこそうまくいくのだと気づいた。一方的に教える関係もダメだ。

なんてことを考えながら、今日も問題集と用語カードをめくりながら、知識の未定着ぶりに頭をかかえている。今年の試験まであと2ヶ月ちょっとだ。


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